足駄はかせぬ雨のあけぼの

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―世間虚仮― 熊本県知事蒲島郁夫

先頃自らの報酬を月額100万円カットした知事が話題になっていたが、今朝の毎日新聞「ひと」欄ではそのご当人、熊本県知事の蒲島郁夫氏が紹介されていた。
政治学を講じる東大教授からの転身という、それだけのことなら格別驚くほどのことではないが、その来し方はかなり破天荒なもので、明治維新の志士の如き傑物ぶりが覗える。

1947(S22)年生れで、出身は熊本市の北方30?ほどの山鹿市。子ども時代、白飯を食べられるのは正月だけだったという。高校は地元の鹿本高校だが、この学校の興りは済々黌の分校として明治29年の開校とあるから由緒は古い。その高校で成績のほどは230人中200番台であったものの、「牧場主、作家、政治家のどれかになる」という夢を抱きつづけたというから、泰然自若として物に動じぬ少年であったとみえる。

高校を出ると農協に就職、3年後の68年、農業研修生として渡米、ネブラスカ大学農学部で豚の精子を研究していたが、どういう機縁でかハーバード大学政治学博士課程へと転身、政治経済・行政学の博士号を取得した、と。「文明の衝突」のサミュエル・P・ハンティントン教授の薫陶を受けているわけだ。
帰国後は筑波大の講師にはじまり、助教、教授を経て、97年より東京大学大学院教授を務め、知事選出馬のため今年3月退職。

財政再建は全国いずれも同じ重い課題だが、熊本の場合、川辺川ダム建設の是非やなお残る水俣病の救済問題など難題を抱えている。熊本県のHPで知事就任時の記者会見を読んでみたが、記者らとのやりとりは学者らしい緻密さと生来の大胆さや志の高さが覗われ、県民にとっては期待も大きく膨らもう。

91年、後に首相にもなった細川護煕が三選を目前に知事を去った際の知事選に出馬要請を受けたものの、この折は断ったという。此の度の学者から首長への転身は、おそらく彼自身にとって天命の如きものとして自覚されているのではないか。この間の17年の年月はその時熟に充分なるものであったろう。

マス・メディアはタレント出身の東国原知事橋下知事なら過剰なまでに追いかけ報道するが、大悟して首長の王道を往くといった感のこういう御仁を時に採り上げてこそ、画竜点睛の絵となろうものを。


<連句の世界−安東次男「風狂始末−芭蕉連句評釈」より>

「雁がねの巻」−12

  此里に古き玄番の名をつたへ  

   足駄はかせぬ雨のあけぼの   越人

次男曰く、玄蕃をやさしげな名だと思う者はいまい。ことばの用を見定めて、雨の日も「足駄はかせぬ」頑固者を取出している。明時-暁-、明方、さらには夕暮などと作らずに「あけぼの」としたのは、次句に対する恋の呼出しの工夫である。むろん、つなぎの「雨」は両義に利かせている。

家人である女の側から見た向付、もしくはその女に同情を寄せる噂の付で、前句の伸ばしではない。「古き玄蕃の名」の用を付足しただけなら、「此里に」の句を中にして前後句は扉にわたる。せっかくの「あけぼの」が知友に浮いてしまうだろう。

また、仮にここを「雪のあけぼの」とでも作れば、あけぼのはあけぼのでも恋とは別種の情が現れてくる。約束上も、先に「師走」とあればここを冬季とするわけにはゆかぬ。「雨のあけぼの」は、一見七音に見合う表現としてごく自然に思い付かれたように見えながら、じつはそうではないのだ。あれこれと思案の末である。「足駄はかせぬ」にも、旧情-前句-を断切り新しい情-次句-を誘う含が読取れてくる。

「其威勢を付たり。足駄はかせぬ雨の曙とは、村民の畏怖-おそ-れて敬ふ様を、玄蕃よりはかせぬ様に意地ある人のさかな口する様也」-婆心録-

「玄蕃の家の威焔おのづと強くして、村民の足駄はきたるままには挨拶もせぬほどなるを、傍より言ひて、雨の曙にも足駄はかせぬ土豪といへるまでなり」-露伴-、など、と。


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