雲雀さへづるころの肌ぬぎ

王法と仏法―中世史の構図

王法と仏法―中世史の構図

―表象の森― 顕密体制:王法と仏法

<A thinking reed> 黒田俊雄「王法と仏法」法蔵館より

「顕密体制論」−顕密体制は10世紀末頃にその特徴をみせはじめ11世紀後期にはもはや確固たる体制となるが、それを積極的に推進したのは南都北嶺などの大寺社勢力であった。

中世の顕密体制の全体像をみるとき、神道なるものが仏教と別に並立して存在したとは考えられない。このことを敷衍して日本宗教史の全般についてみると、はたして仏教と対等の意味での神道という宗教は実在したのか-明治以後は別として-、固有信仰としての神道の独自的存在という認識は幕末・明治のナショナリズムが創出した歴史観-国家神道的信念を伴う-の所産ではないかと、疑わざるを得ない。

天台・真言それに南都の各宗、さらに陰陽道・神祇信仰まで含めて、およそあらゆる宗教的なものが、密教を中心に統合された「顕密」仏教という大枠を形成しながら発展したのが、平安仏教の実態であった。加持・祈祷、念仏、神仏習合、物忌み・占いなど、日本の宗教に根強くつづいた特色は、すべてこの時代に発達し、民衆にも浸透していったのである。

中世では顕密仏教こそが時代を通じて宗教の世界における支配的地位を保持していたというのは明白な事実である。鎌倉時代に新仏教が興って宗教が一変したように云うのはある程度あたっているが、「旧仏教」なる顕密仏教の影が薄れたかのような理解があるとすれば、それは一面的に単純化された教科書によって普及された虚像でしかない。

8世紀後半から11世紀に至る期間は、神仏習合が徐々に進行していくが、その実質は神々への信仰が種々の論理と形態のもとに仏教の一部として包み込まれていく時代であった。
その論理とは、a-神は自身が輪廻の世界を流転する存在であることを歎き、仏法によって解脱することを願っている。B-神は仏教を守護する善神である。c-神は仏教経典に説く仏-本地-が、生きとし生けるものを救済するため化身して現れた-垂迹-ものである。D-神は仏の清浄な魂-本覚-である、などである。
中世では「神道」はすべて仏教の一部として説明された。それは大乗仏教がその原理のなかに、土俗的信仰をその体系のなかに吸収する論理を備えていたからである。

中世仏教においては名目上八宗派が並立していたが、全宗派に共通して承認されていた教理が密教であり、密教を基調にして、天台・華厳・唯識-法相-・律など各種の顕教を組み合わせた教義が、中世において正統的なものと認められていた仏教の教理であり、そのような顕密仏教が国家権力と相互依存の関係を公認しあって精神界を支配するのが基本的な体制であった。「神道」はこのような仏教の一部に組み込まれ、仏教教理ことに密教や天台の哲学によってその宗教的内容を置き換えられていたのである。

王法と仏法の相依り相助ける顕密体制は、中世末期の戦国の争乱のなかで、荘園制=権門体制の解体・消滅とともに歴史的生命を失う。

王法仏法相依論はもともと顕密仏教が世俗権力と結びついた体制の成立とともに、仏教の側の主導によって発展したものであり、その体制の決定的な否定は、信長・秀吉の叡山・根來などの焼き討ちと大殺戮をまたなければならなかった。

近世の統一政権の出現と幕藩体制の成立によって、ごく一部を除いてすべての仏法は王法に屈服した。そして明治初年の廃仏毀釈国家神道の創出によって、仏法はまたあらためて王法に屈服した。

日本の民族的宗教としての「神道」は、本居宣長らの国学復古神道から明治の国家神道の成立に至る近代ナショナリズム勃興の段階で、ようやく名実ともに備わった形で出現する。

神仏分離」と「廃仏毀釈」という強制的・破壊的矯正がが、政治権力の手で推進され、神道はいびつながらも独自の宗教としての地位をはじめて獲得することになった。そして神道という名称の民族的宗教が古くから日本にあったという歴史的認識が、ここではじめて明確にされ定式化される。さらに「神道」の語義もこれが基本と考えられるようになり、学者もこの用語法に従い国民もそのように教育されて今日に至った。

だが、それとともに注目すべきことが起こった。神仏分離によって、神道は過去の日本人が到達した最高水準の宗教的哲理から切り離され、不可避的にかつ作為的に原始的な信仰そのもののような相貌を呈するようになった。神道は、自立性を与えられると同時に「宗教でない」と強弁されるような宗教に転落したのである。


<連句の世界−安東次男「風狂始末−芭蕉連句評釈」より>

「雁がねの巻」−18

  月と花比良の高ねを北にして  

   雲雀さへづるころの肌ぬぎ  越人

次男曰く、初折の端、春二句目、時節の付である。

「海道下り」の「ひばりあがれる野路のさと」-瀬田の東北-を栽ち入れ、俤は読み取ったと相手に伝える二句続の仕立てだ。

「雲雀さへづる」と云えばヒバリの高上がり、比良の頂きもそろそろ残雪の候である。これを人情に引き移せば「肌ぬぎ」になる。この気転による悲歌の消しようは巧い。芭蕉自筆控えには「ひばり啼より肌ぬぎになる」とあり、これが初案か、板本形のほうが良い。

前句が「比良の高ねを北にして」とそのままの栽ち入れを用いていなければ、雲雀「あがれる」ころの肌ぬぎと作りたいところだが、そうはさせてくれぬところがみそだ。封じ手の工夫も俳諧の楽しみの一つである、と。


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