月と花比良の高ねを北にして

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―世間虚仮― 四川省の大地震

中国四川省にM7.8の大地震発生の報道に衝撃を受けつつ、彼の地は世界有数の地震頻発地帯であったということをいまさらながら思い知らされ些か暗澹とした気分。
そうだった、およそ7000万年前の白亜紀、インド・オーストラリアプレートが北上してユーラシア・プレートにぶつかり、その沈み込みで生じた造山活動の果てがヒマラヤ山脈であること。海底の堆積層が隆起したためネパールでの高地ではアンモナイトなどの化石がよく見出されること。
そして現在もなお、インド・オーストラリアプレートは動きつづけており、そのプレート間の軋みは膨大なエネルギーを貯め込み周辺一帯の活断層へとその放出先を求めているのだ。

報道によれば、震源四川省の地下を北東−南西方向に300?ほど延びる竜門山断層の一部が動いたとみられ、その地震エネルギーは阪神大震災に比してほぼ32倍にも匹敵するという凄まじさ。
この地震では遠く上海や北京の高層ビルでもかなりの揺れを感じたという。成都−北京間、成都−上海間の直線距離はともにほぼ1800?、東京−札幌間の2倍近くにもなるが、震源からそれほど離れた所にまで影響を与えたのは、断層破壊に約45秒-阪神大震災は約11秒-を要し、長周期の地震波が生じやすかったためとみられている。

地震発生からすでに3日目、中国当局は、現時点では資金や物資の援助は受け入れるものの、国際救援隊などの人的援助を受け入れる態勢にはないと、サイクロン被災のミャンマー軍事政権と同様の表明をしているという。
「被災地に入るのが非常に困難で、今のところ救援隊の入国や被災地への案内を設定するのは難しい」と説明、「条件が整えば我々から積極的に連絡する。中国外務省が民政省や地震局など関係部門と協力して受け入れを設定する」などと云っているようだ。

生き埋めとなっている被災者たちの死線は72時間と云われる。
今なお記憶に新しい海外からの救援部隊もともに活躍した阪神大震災の経験を思えば、ひとりでも多くの人命救出が最優先されるべき非常事態に、どれほど混乱していようと恥も外聞もなく門戸を開放するが良いと思われるが、一党独裁・経済至上主義の彼の国はどうにもそうはゆかぬらしい。

8月開催の北京五輪を前に、先に発したチベット民主化騒動とともに、四川省の大地震という自然の猛威のなかに見出される人災の数々は、国家という名の強権を照射してやまず、その罪悪を世界衆知のものへと曝け出す。


<連句の世界−安東次男「風狂始末−芭蕉連句評釈」より>

「雁がねの巻」−17

   物いそくさき舟路なりけり  

  月と花比良の高ねを北にして  芭蕉

次男曰く、初折の裏十一句目は最初の花の定座であるが、この歌仙は二つ目の月がまだ出ていないから、ここは花月抱き合せ-季は花-のつとめを免れない。

そしてそれは偶々そうなったというよりも、初裏八、九句目あたりで出すべき月をこぼした時から既に予定されていた演出であったように見える。

当然、越人の前句はかなり幅広い景情の選択を次句に許すように作られていなければならない筈で、事実「物いそくさき」云々の句は、遠国へ赴く受領の旅、海路で往く熊野詣、武人や公達の都落ちなど、いろんな物語の仕立てを誘うようにできている。

その選りどり見どりのなかから、芭蕉が「平家物語」巻十「海道下り」の一節を下に敷いたのは、同年夏須磨の浦で覚えた無常迅速の感を、改めて思い返したからだろう。

本三位中将重衡が生け捕られて頼朝の許へ送られたのは寿永3(1184)年3月のことである。その志賀の山越えを「平家」は次のように記す。

「合坂山をうちこえて、勢田の唐崎駒もとどろにふみならし、ひばりあがれる野路のさと、志賀の浦波春かけて、霞にくもる鏡山、比良の高根を北にして、伊吹の嵩-ダケ-も近づきぬ」

ことばをそっくりそのまま栽ち入れたところが気になるが、志賀の里は、天智天皇大津京が営まれた地だ。既に人麻呂や高市古人などの感傷歌があり、平安中期以降歌枕として盛んに詠まれた。山おろしの風、浪間の月、春の桜花などと取合せ、とりわけ、俊成が「千載集」に平忠度の「さざ波や志賀の都は荒れにしを昔ながらの山ざくらかな」を詠人知らずとして選入して以来、懐古の情を志賀の花に寄せて詠む好みを生んだ。

忠度の歌は「昔ながらの山桜」を長等山-大津の背山-に掛けたもので、ここは壬申の乱に敗れた大友皇子-弘文天皇-の自刃の場所である。この歌は「平家物語」-巻七-にも「忠度都落」として出てくる。

「物いそくさき舟路」で花月の情を尽すには、近江が相応しいと芭蕉が考えたのは尤もな訳がある、と。


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