ものおもひゐる神子のものいひ

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―表象の森― 重さに聴く

先の日曜-18日-は例によって稽古だったが、靱帯損傷のYukiは相変わらず顔を出せないから、JunとAyaのふたりっきりだ。そこでいつになく趣向を変えて少し私流に拘ってみた。

先ずはひとしきり「ゆすりふり」をさせて、それから足を肩幅ほどにして微かに左右にゆっくり移動させながら重心を尋ね、じっくりと身体の重さに集中しこれを知覚させる。いわゆる「重さに聴く」とでもいうべきもの。

その重さの感覚を把持しながら、おもむろにあらためて重心を移動させつつ、上体を或いは左右の腕をもゆっくりと動かしていく。そんなに難しいことでも込み入ったことでもない。ただ、身体の内側への集中を、けっして求心的に強めていくのでなく、むしろ遠心的かつ可変的に発揮していく感じだろうか。

そんなことに30分ちかく要しただろうか。そのあと音楽をかけて即興をさせてみた。このとき撰んだのはもう長いこと使わなかったMariah Carryの「Emotions」。1曲の長さは4.5分程度、これを交互に3回。

結果はズバリ速効あり、JunnもAyaも見違えるようなのびやかな動きで、身体の各部位のつながりにしなやかで有機的な連関がある。それぞれの動きの展開は明らかに豊かなものになり、無意識裡に発想の変化もみられたようだ。

無論、その30分ほどのあいだに、二人にはそれぞれ個別に講釈めいた注意というか能書きの類も垂れた。

Ayaには、誰にでもある一般的なことだが、右利きゆえの偏りの癖が強いこと。だから腕や脚の重さの感覚が左右においてどれほど異なっているか、それを知覚する必要があることなど。

Junの場合はもう少し厄介な壁がある。彼女は此方がひとつのnonを指摘すると、それをすべてのnonと受け取ってしまってピシャリと自らを閉ざす傾向があり、私の知るかぎりにおいてこの性癖はかなり極端な部類のものだ。此方に云わせればごく些細なこと、ちょっとした問題にすぎないのに、ひと言そんな指摘をしようものなら、まるで自己同一性の危機に瀕したかの如く反応してしまう。だが無意識の本人はそんなヤワなものではない、本当はむしろもっと図太いものが奥深いところにある筈だが、表層のレベルですぐ硬化してしまって鉄の仮面を被ってしまう。

彼女には条理と不条理のあいだに常人には計り知れないような乖離があるのだろう。おそらく断絶にも似たその乖離がなにがしか繋がってきうるとしたら、それはきっととんでもなくおもしろい風景を、いまだ見知らぬ地平を垣間見せてくれるにちがいないのだが‥。


<連句の世界−安東次男「風狂始末−芭蕉連句評釈」より>

「雁がねの巻」−22

  家なくて服裟につゝむ十寸鏡  

   ものおもひゐる神子のものいひ  芭蕉

神子-みこ-

次男曰く、「ものいひ」と云うからには、この「神子」は神楽神子ではなく、神降ろしをする梓巫女だ。「ますかがみ」は「面」「影」などの枕に遣い、鏡と神子は付合である。

芭蕉は流離の人が口寄せを神子に頼んだと趣向を設け、呼び出す霊は生者死者いずれとも知れぬが、はこびは、ここに来てようやくこの巻の主題-夕顔・玉鬘の運命-につなぐ糸目が見えてくる。工夫のたのしみを残す。

「ものおもひ」はのり移った霊の物思いには違いないが、取持ちながら神子自身も亦そこはかとない物思いに耽るらしいと読ませ、そして当人には相手が居ないというところが面白い。「服裟につゝむ」は、そういう未通女の心理にも働いているようだ、と。


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