人去ていまだ御坐の匂ひける

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―世間虚仮― QahwahからCoffeeへ

日なが家に居て、本を読んだり、パソコン相手にMemoをとったりと過ごしていると、どうしても喫煙や喫飲の量が多くなる。私の場合、飲料のほうはもっぱら珈琲、それも安上がりで手間のかからぬインスタント一辺倒だ。

そのコーヒーのルーツはといえば、意外なことに13世紀頃のアラビアだという。「カフワ-Qahwah-」と呼ばれたが、アラビア語のQahwahは元来ワインを意味し、これが転訛したとされる。

原産地をエチオピアあたりとするコーヒー豆は、6世紀頃アラビア半島で栽培されるようになる。バターでボール状に固められ遊牧民たちが移動の際に携行したという。熱砂の地域では活性効果をもたらすものと重宝されたとみられる。

この豆が煮出しされるようになり飲用となっていくのが13世紀頃で、イスラムの神秘派スーフィーの僧侶たちに愛飲された。この「カフワ」がモカの港からオスマン帝国の首都コンスタンティノーブルに渡り、やがて街中に「カフワの家-coffeehouse-」が立ち並ぶようになる。16世紀後半にはその数600軒を越えたという。

これがヴェネチアの商人たちによってヨーロッパへと伝えられ、彼らは焙って香りを出すように変えて、ロンドンやアムステルダムついではパリでと、サロンやクラブで紳士淑女たちの嗜好飲料となってひろまり、現代のコーヒー文化へと連なる。
3000〜4000店も軒を並べたというロンドンのコーヒーハウスからは「ジャーナル」が発行され、いわゆる雑誌メディアが誕生し、さらには保険会社や政党までもがこれを拠点に起こったという。

オランダから日本に伝わったのは17世紀とされるから、これまた意外に早い。だが、茶の全盛期を迎えていたこの国ではまったく普及せず、かの蘭法医シーボルトが「なぜ日本人がコーヒーを飲まないのか不思議でならない」と書き残している、と。
時代劇でお馴染みの「遠山の金さん」こと遠山金四郎景元が意外なことにマニアであったとされるが、このあたり父-景晋-が長崎奉行だったという縁からか。
いずれにせよ、日本にコーヒー文化がひろがり根づくようになるのは、「散切り頭を叩いてみれば文明開化の音がする」と囃された明治も20年代になってからだ。

インスタントコーヒーにまつわる話題では、これまた意外や意外、この発明者は日本人だったというから驚きだ。時に1899年、彼の人は加藤サトリ-一説にサルトリとも-、時に1899年、シカゴ在住の化学者であった彼は、液化コーヒーを真空乾燥法という手法で粉末化することに成功、のち1901年にパンアメリカン博覧会に「ソリュブル・コーヒー-可溶性コーヒー-」という名前で出品されたものの、彼はよほど無欲の人だったとみえて特許出願などしていなかったため、アメリカ人のなる人物に特許の権利をみすみす掠われてしまったらしい。漁父の利を得た件の人が初代大統領と同名のG・ワシントンというのが、これまたアイロニーたっぷりで面白すぎる。


<連句の世界−安東次男「風狂始末−芭蕉連句評釈」より>

「雁がねの巻」−23

   ものおもひゐる神子のものいひ  

  人去ていまだ御坐の匂ひける   越人

人去-さり-て、御坐-おまし-

次男曰く、「ものいひ」の内容を付けている。「人去ていまだ御坐の匂ひける」とは、そのまま霊媒のことばと読んでよい。

「家なくて」服紗に包んだ鏡だけが残った、「人去て」御坐の余香だけが残った、というのは発想の差合にならぬかと気になるが、余香を嗅がせて素性を探らせる仕掛は巧い。立ち去った「人」が高貴の位なることは分明の作りだが、男女いずれとも分からず、むろん、鏡の持主の尋ね人だとただちに云っているわけではない。

越人も亦、たのしみを後に残しながら、話作りの暗示的工夫によく即いていっているようだ、と。


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