ほとゝぎす鼠のあるゝ最中に

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―世間虚仮― 暴君ネロとや

橋下徹大阪府知事によるPT案-財政再建プログラム試案-が矢継ぎばやに次々と出され嵐となって吹き荒れている。今日も今日とて給与12%カットの報が所狭しと紙面に躍っている。おまけに聖域と云われた退職金まで当分の間5%カットという徹底ぶりだ。TVのワイドショーは批判もなくはないがこの異端児改革のお先棒担いだ礼賛派がかなり目立つ。

彼自身、暴君ネロにもなってみせようと自負してなんら痛痒のみられぬ御仁である。MASSでは数が質に変成してしまう。183万票の数がとんでもない妖怪を産み落としてしまった、としかいいようがない。

先に縮小やカットを取り沙汰されてきた福祉や教育関係、さらには文化やスポーツ施設の数々。これに反対の狼煙を上げる動きも一部にあるが、まだまだひろがりを見せるに至っていない。私のところにも反対運動の署名や賛同、あるいは集会への参加を求める案内文書の類が寄せられているが、まさに緒についたばかりという様相で、暴君ネロ殿のスピードのほうが今のところ数段勝っている。

このまま6月議会へと突入すればとんでもないことになる。
議会は混乱必至だろうが、なにしろ大量の数をバックに怪物化してしまった暴君である。彼らは勝負の初めからして数の亡霊に戦々恐々としてきたではないか。推して知るべし、結果は見えている。
といってこのまま手を拱いているばかりではなんら道も開けぬのだが‥。


<連句の世界−安東次男「風狂始末−芭蕉連句評釈」より>

「雁がねの巻」−25

   初瀬に籠る堂の片隅    

ほとゝぎす鼠のあるゝ最中に  越人

次男曰く、「月と花」以下春三句、雑五句と来て、後続四句目には月の定座を控えている。はこびはこの辺で夏もしくは冬の一句も欲しいところである。

「ほととぎす」とはよい思付だ。ほととぎすはうぐいすと並んで、古来初音を待たれた。「かしましき程鳴き候へども、稀にきゝ、珍しく鳴、待かぬるやうに詠みならはし候」と、紹巴の「至宝抄」-天正13年-も云っている。

「初瀬」の移りだと容易にさとらせる名にうまく季をかぶせて初五に取り出し、「鼠のあるゝ最中に」と、和歌・連歌についぞ見かけぬ意表を衝いた合せを以てしたところ、なかなか俳の利いた作りだが、西行に「ほととぎす聞きにとてしも籠らねど初瀬の山はたよりありけり」-山家集・夏-という歌がある。参籠に鼠は付き物、というだけでは初瀬のほととぎすは聞けぬ。この歌は越人の作意にあったに違いない。

そろそろ種明しの潮時ではないか、と云いたげな芭蕉の唆誘に、先生の初瀬詣でのゆかりは玉鬘よりもむしろ西行さんだろう、と恍けた躱し方は巧い。むろん先の「春の夜や」の句を心にかけたうえでのことで、両吟という応酬を面白くする。
笈の小文」行脚は、西行を通して肝胆相照らした指定の同行という点に格別の意義があり、伊良胡崎への案内を務めた越人がそれを思わなかった筈はない。

「初瀬にほととぎすは西行の歌からの連想もあろうが、鼠の騒音のうちに雅趣あるほととぎすを聞いたとしたところが俳諧的で、初瀬の山趣がよくあらわれている」-中村俊定-、と。


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