行月のうはの空にて消さうに

Mantarou1

―四方のたより― 行き交う人々:池田万太郎こと‥

一コマ漫画の「池田万太郎の楽画記」を一頁ずつ見、読みつつ、ひととき、遠い昔の高校時代を甦らせている。

作者万太郎こと池田義徳さんは先日も触れたが市岡の13期生、2年上だ。その面影を追えば、一見おっとりとしているようでかなりの道化者、茶目っ気たっぷりのハニカミ屋さんといったタイプで、スラリと180?近くの長身だったように記憶する。

彼が演劇部の部室に顔を出すようになったのは、60年、私が高一の夏、6月の新人公演も終えて、秋の文化祭や府下のコンクール予選に向けて、上級生たち、3年の吉岡保則さんや深海勝也さん、2年で新部長の上木英嗣さんらを中心に、レパ選に入っていた7月だったろう。

前年の部長だった吉岡さんは高校生最後の機会にどうしてもやりたいものがあった。木谷茂生の「太鼓」、この作品は都島工業の演劇部が前の年のコンクールで初めて演じている。当時の都工の演劇部は様式性の勝った簡潔な舞台づくりで一定の評価を確保していたかと思われるが、それが木谷茂生の些か観念的な象徴性の強い詩劇的ともいえる作品世界とよくマッチングしたのだろう、この舞台を観た吉岡さんたちには少なからず新鮮な刺激を与えたらしかった。私はまだ中学生だったからもちろん観ていない。

一方、深海さんは、自身が幼い頃過ごしたという和歌山の-湯浅あたりでなかったかと思うがはっきりしない-土地にまつわる伝承譚、丑の刻参りを材に、自ら書いた創作劇を候補に挙げて執着を示していた。

この場面通常なら、二者択一とならざるを得ないわけだが、いずれを落とすのも忍び難いといった体でみんな頭を悩ましたようだった。「太鼓」のほうは前年に都工の上演がありコンクール向けとしては疑問が付され、深海さんの執着とオリジナルだということを優先させるべきという意見に大勢は傾いていく。だが、吉岡さんたちの「太鼓」への執念も強かった。そこで異例のこととなるが、文化祭には「太鼓」と「丑の刻参り」の二作を上演することに、コンクールへは後者を、という双方ともに活かす案に衆議決したのだった。

高校生活はじめての夏休み、私はそれほど退屈する暇もなく過ごしたようである。高校野球夏の予選では、吉岡さん伝授で応援団の一員として試合のたびにアルプス席に立った。応援団長の吉岡さんは11期の三好征次氏直伝だったという。いつも太鼓を打っていたのは深海さんだ。7月いっぱいでこれが終ると、「丑の刻参り」の稽古に入っていった。8月のある日、深海さんの懐かしい地へ方言拾集にとみんなで出かけたこともあった。

9月、二学期が始まると「太鼓」のほうも稽古がはじまって、二本並行の準備は本格化、装置やら照明やらとずいぶん慌しいものだった。

木谷茂生の劇作「太鼓」や「火山島」はその出版が93年をもって絶版となっているようだから、高校演劇などで採り上げられるその寿命はかなり長いものだったようである。

「太鼓」の舞台は第二次大戦中の前線だが、それが大陸なのかあるいは南方方面なのか場所の特定はなくすでに抽象化されている。登場人物はおもに二人、初年兵らしい少年とその上官である軍曹、この二人が斥候として漆黒の夜の前線に立っている。長年の兵隊暮らしに馴れきってもう内地への帰参など望むことさえ忘れはててしまった、すでに職業軍人化した古参兵と、いかに生きるかがそのままいかに死ぬかへと反転して宙づりになってしまった少年兵が、前線という極限のなか、決して噛み合う筈もない対話をたがいのモノローグのごとく重ねていく。

劇のラスト、敵の戦車が来襲してきたかとみえる轟音が響き、少年は叫ぶ「軍曹!軍曹!」、返事はない、そば近くにまどろんでいた筈の軍曹の姿はいつのまにか消えていた。近づく戦車の轟音がさらに大きくなるなか、絶望の叫び声が暗闇に空しく響いて、幕となる。

おそらく人生最初で最後、一度こっきりの役者というものに挑んだ池田さんが演じたのはその軍曹の役、吉岡さんが彼の柄の大きさを見込んで言葉巧みに?誘い込んだのではなかったか。普段は茶目っ気たっぷりの明るい彼が、ニヒルさを漂わせながら抑揚を殺して台詞を喋る。標準語のアクセントやイントネーションにずいぶん悩まされたようだったが、本番の出来は、いわゆる味のある演技とでもいうか、なかなか上々の部で、その彼の地と演技の乖離がいまも鮮やかに残る。舞台全体としても緊張感の持続した叙情的で美しいものであった。

さていまは万太郎画伯となった彼の一コマ漫画の世界、僅かながらもその人となりを知る者にとって、ほのぼの心暖かくなるような画調に、添えられた詞が寸鉄のごとくよく諷刺が効いている、彼ならばいかにも然もありなんかという世界である。
「楽画記」にはその一コマごとにごく短いエッセイの如きあるいは物語の如き一文が添えられているが、これまた彼らしい感覚と思考かと思われいかにも懐かしい味がする。

本書の奥付を見るにおよんで、この出版が私もよく知るところの安治川べりの石炭倉庫、あんがいおまること久保岡宣子女史の会社JDCだったと気づいて、なんだそうだったか、たしか彼の実家は市岡の尻無川近くにある池田製作所ではなかったか、同じ港区という地縁で知り合うこともあったかと納得。

彼の作品は「万太郎ギャラリー」という名で見られるが、もう一つ、大阪市の外郭団体大阪市道路公社が出す広報誌「POOL」にも池田万太郎の一コマ漫画の世界として連載されている。

写真は「楽画記」末尾の作品だが、おそらく原画はカラーなのだろうが、印刷の都合でかモノクロとなっている。
これに添えられた一文が、彼らしい一面を彷彿とさせて愉しいので最後に引いておく。

「私は自分が着けている、紳士面した仮面が無性に嫌になり、かなぐり捨てたくなるときがあります。
 でも、そうすることはとてもとても恐ろしくて、自分で剥がす勇気がありません。
 いっそ風が吹いて、私の意志でなく、仮面が吹き飛ばされたら良いのにと思います。
 ただし、仮面の剥がれた卑しい私を見つけてくれるのは、大好きなあなたでしかないと嫌です。」


<連句の世界−安東次男「風狂始末−芭蕉連句評釈」より>

「雁がねの巻」−29

   あの雲はたがなみだつゝむぞ  

  行月のうはの空にて消さうに   越人

次男曰く、名残ノ折の月の定座。

 「山の端の心も知らで行く月はうはの空にて光-カゲ-や絶えなん」
八月十五夜も明け方近く、何某の院に女を伴った源氏が、
 「いにしへもかくやは人のまどひけん我まだ知らぬしのゝめの道」
と詠掛けたのに対して、女が返した歌である。

越人の句は、いわゆる俤取りなどとは違う。そっくりそのまま持ち込んだ栽入で、これは師の「月と花比良の高ねを北にして」の作りと釣合わせる意図もあったのだろうが、この両吟のそもそもの興の種明しである。

やっと出来た、という越人の破顔が目に見えるような作りだ。
物語の順序と引き違えて、九月二十日ほどの源氏の追憶が前に出、十五夜の夕顔の心細さが後に出てくるところが、はこびの成行上そうならざるを得なかったのには違いないが、偶然とも云えぬ俳諧の面白さである、と。


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