砧も遠く鞍にゐねぶり

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―表象の森― 稗田阿礼は女?

古事記の編纂者と伝えられてきた稗田阿礼は女だったという説が有力なようである。

女性説は民俗学柳田国男や国文学の西郷信綱も唱えているそうな。
古事記序文には舎人とあるから、従来男性と考えられてきたわけだが、女性説は平田篤胤など江戸時代からすでに唱えられていたそうだ。

抑も「アレ」という語は神の誕生を意味する古語で、これに立ち会う巫女の名にふさわしいと。
また、平安初期の文書「弘仁私記」の序には、阿礼が天細女命-アメノウズメノミコト-の後裔とされている。

よく知られるとおり、天細女は、天の岩屋戸神話、天孫降臨神話などでシャーマン的な能力を発揮した女神だが、猿女-サルメ-氏の祖ともされる。
猿女とは古くは原始的呪的伝統を引く「をこ」-痴・烏滸、滑稽の意-なる歌舞をもって宮廷神事に仕えた巫女で、天細女の話はその職掌起源譚でもあった。

稗田姓は大和国添上郡の地名にもとづくもので、猿女氏と稗田氏は同族であったろうと考えられている。
また、平安朝に猿女と同じく縫殿寮に属していた稗田氏出身の女官職は、オバからメイへと継承されていたという。これは生涯独身で過ごす巫女職ならではの継承法であった。

これらを考え合わせると稗田阿礼は猿女に属する巫女であり、その由縁をもって古事記編纂に関わったと考えるのが妥当、というのである。

<連句の世界−安東次男「風狂始末−芭蕉連句評釈」より>


「雁がねの巻」−30

  行月のうはの空にて消さうに  

   砧も遠く鞍にゐねぶり   芭蕉

次男曰く、「八月九月正ニ長キ夜、千声万声了ム時無シ」、「和漢朗詠」にも採る白楽天の詩-夜、砧を聞く-である。

季節は、夕顔のはかない恋の始終に見合っているだろう。単に季続の必要上任意に「砧」を思い付いたわけではない、

「夕顔の巻」には、「見し人のけぶりを雲とながむれば」の歌に続けて、「耳かしがましかりし砧の音をおぼし出づるさへ恋しくて、まさに長き夜、とうち誦じて-源氏は-臥し給へり」と語っている。

「砧も遠く」とは、この「おぼし出づるさへ恋しくて」に照応する追憶の情を含としたものだ、とまずわかる。

当歌仙の対座の興にこれを執成せば、獲物を仕留めるまでに、「鞍にゐねぶり」するほど手間をかけたなあ、ということになる。よく辛抱して凌いだ、と越人を賞めてもいる。やれやれこれで終った、という自身の安堵の気分もむろんある、と。


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