たゝらの雲のまだ赤き空

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−表象の森− みにくいアヒルの子

ありさ」という女の子、中学1年生になったばかりだから、まだ13歳か。

母親の勧めるままに3歳からクラシックバレエを始めたが、物心ついた頃にはすでに踊ることに夢中になっていた。

いつのまにか、バレエ教室の先生からは、金の卵だといわれ、特別扱いをされるようになった。
だが、注目と期待が集まれば集まるほど、同じ教室の仲間からは浮き上がり、独りぼっちになっていく。

金の卵は、イジメの対象となって、みにくいアヒルの子になってしまった。

なぜだか、その白鳥が、ひょんな成り行きで、わが稽古場に通うようになった。
といっても、今日の稽古で2回目、この先どうなっていくか、まだまだなにも見えない。

この子が、ホンモノの金の卵なら、心をしっかりと強くしてやって、できるだけすみやかに、白鳥の住むべき世界に返してやることが、bestなのだろう、と思う。

うちの稽古は、それはそれは気の長い、まるでLifeそのもののような、遠い道を往くものだから、まるで真逆のことを、してやらなければならないのかもしれない。


<連句の世界−安東次男「風狂始末−芭蕉連句評釈」より>

「鳶の羽の巻」−34

  押合て寝ては又立つかりまくら 

   たゝらの雲のまだ赤き空  去来

次男曰く、去来の答は、多多良浜だった。筑前国粕屋郡の西南部、博多湾に面し、多々良川を挟んで西は箱崎東は香椎に到る一帯の浜-現在福岡市東区内-を云い、多々羅・鞴とも書く。

元寇文永の役の古戦場で、延元(1336)元年には、再挙を期して西走した足利尊氏が、寡勢を以て菊池・阿蘇の連合軍を破った歴史がある。また、永禄12(1569)年にも毛利と大友の合戦場になったことがあるが、多多良浜箱崎ノ津は、九州統一を果した秀吉が記念すべき陣所を構えた処でもある。

「たゝら」案内の興はこれだったろう。尾張に身を起し-貞享元年「冬の日」五歌仙-、奥羽・北陸路を巡り、近江に新風を立て-元禄3年「ひさご」五歌仙-、京に入って正風を天下に宣言した俳諧師なら、その後の足取りはかの天下取のそれに倣う、と去来は言いたいらしい。

博多は、秀吉の思惑通りにゆけば、日本国を象徴する一大商港として復活した筈だが、事実はそうはならなかった。文禄・慶長の役兵站基地としての役割を最後に、過去の栄光を偲ぶ、北九州の平凡な商人町の分に甘んじることになる。関ヶ原後、小早川秀秋に替って筑前を領した黒田長政が名島城を廃して、那珂川をへだてた博多の西、福崎の地に築城したことが、いっそうこれに拍車をかけた。新しい町の名を黒田氏の出身-備前国福岡-に因んだ、52万石の城下の誕生である。

かくして博多は福岡藩の一小港となり、糸割符の仲間にも洩れたが、これには、大内氏の滅亡頃から、貿易による繁栄は既に長崎・平戸に奪われつつあった、という一噌根本的な事情を見逃せない。長崎に生れ福岡に暮したことのある去来の眼は、そこにも向けられているかもしれない。いや、いるだろうと思う。句に云う「まだ赤き空」とは夕焼-打越句と差合う-でも朝焼でもない、まさに歴史の残照を偲ぶ浪人の眼である、と。


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