ことしは雨のふらぬ六月

2008072900000478

―世間虚仮― 度肝を抜く‥図

朝刊の何面だったか、眼に飛びこんできた一枚の写真に、唖然としつつも思わず見入ってしまった。

「身動きできない‥猛暑の四川」と、写真の大きさに比べれば控え目に小さな見出しがついていた。

猛暑になった中国・四川省遂寧で27日、大勢の市民が一斉に地元のプールに詰めかけ、人波で水面が見えないほどの盛況ぶりとなった-写真はロイター-。この日の最高気温は37度、と記事は伝えていた。

「中国の死海」とも呼ばれる室内の大プールだそうだが、写真を見ればわかるとおり、1万余の人の群れが溢れ、泳ぐどころか身動きもとれないほどなのに、だれもが浮き輪をもって、これが混雑ぶりに拍車をかけているのが、なんとも可笑しく笑ってしまうが、やがて哀しくもなろうかといった図である。

北京五輪もまぢか、五輪開催とは遠く隔たった地域の中国事情にもなにかと注目が集まるなか、この舞台が成都から東へ150キロほど離れた地とはいえ、あの大地震の悪夢も醒めやらずなおまだ余震の続く四川省の一都市であることが、さぞ世界中の皮肉屋たちの視線を惹きつけたものと思われる。


<連句の世界−安東次男「風狂始末−芭蕉連句評釈」より>

「梅が香の巻」−10

  奈良がよひおなじつらなる細基手 

   ことしは雨のふらぬ六月   芭蕉

次男曰く、陰暦六月は、水無月の別名もあるとおり、雨少なく水涸れる酷暑の月だ。それにわざわざ「ことしは」と冠したのは、昨年は雨が降ったということだろう。

これは恋-濡れ事-のこととして読めば、昨年は娘の顔も拝めたということだが、一方、晒布にしろ墨にしろ塗物にしろ団扇にしろ、奈良の特産物はいずれも雨期を嫌う、というところが付の卓抜な目のつけどころらしい。芭蕉は「奈良がよひ」の表裏を見究めて、ことばの表は雨を嫌い、裏では雨をよろこぶ人情を取出して付けている。

「ことしは雨のふらぬ六月」は、今年はさいわい雨が降らなかったという意味の裏に、娘の顔を拝めなくて残念だ、気の毒だという意味を含ませなければ成り立たぬように作られていて、言わんとするは生業と恋はとかくままならぬということである。この酷暑では雨湿りの一つも欲しかろうが、暑熱がとくに身に堪えるのは奈良通いの本義を忘れるからだ、下心も程々にせぬと元も子も失う、と芭蕉はからかっている。

句は一句では恋のかけらも見えないが、前句と結べば心憎い恋離れになっている。恋の呼出しも離れも、共に野坡ではなく芭蕉だという点に注意したい。そういうはこびを評釈というものはじつに味気なく読む、と。


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