奈良がよひおなじつらなる細基手

080209003

<連句の世界−安東次男「風狂始末−芭蕉連句評釈」より>

「梅が香の巻」−09

   娘を堅う人にあはせぬ  

  奈良がよひおなじつらなる細基手  野坡

細基手-ほそもとで-

次男曰く、会わせぬと云うならよけい会いたい、見せたがらぬものなら見たい、とつけこんでいる。

細基手とはかぼそい元手、小商人のことだ。それが奈良へ通ってくるのは晒布・墨・塗物・団扇など奈良名産の買付をするためだが、「かよひ」という詞は古来、恋の詞でもある。

通ってくるのはじつは娘見たさだ、という含に滑稽の作意があり、併せて「あなじつらなる」の「つら」にも二重の意味をうまく利かせている。

源氏物語」には「わが女御子たちとおなじつらに思ひきこえむ」-桐壺-、「はらからのつらに思ひきこえ給へれば」-竹河-などの遣方が見え、「須磨」の巻には「初雁は恋しき人のつらなれや旅のそらとぶ声のかなしき」という、古来しばしば本歌にも取られた光源氏の歌がある。

この「つら」は列の意味だが、野坡は物語の面影をかすめて、文字通り顔つきのことだと翻しているらしい。当世風俗語への執成も俳になる。業平の河内通いならぬ、奈良という仏臭い古都に通ってくる小商人は、どれもこれも-同列-、毎年、おなじ面つきをしている、と云えば話の興をつくるだろう。小商人の胸に秘めた恋は光源氏の歌のようにはゆかなくて、下世話なところに哀も歓もうまれる、尤もなことだ、とおのずからこちらは読み取らされてしまう。

拒絶の頑固さに押掛通いの辛抱強さを向かわせたうまい付だが、これはいどんで二句恋とした作りである。前一句のみで恋と読んでいる注釈があるけれど、そうではない。「娘を堅う人にあはせぬ」は次座に対する誘、恋の呼出しだ、と。


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