門で押さるる壬生の念仏

080209014

―世間虚仮― 8.8.8がはじまって‥

このところ新聞を開いても、どうもあまり詳しくは読む気がしない。

例年のことだが、この時期はどうしても高校野球の報道が紙面を割く。今年はそれに加えて北京五輪がとうとう始まったから、それらスポーツ記事や関連ものばかりが他記事を圧倒して、ふだんの紙面構成を一変させてしまっている。

新聞を読むにも、それぞれ個有のリズムというものがあろう。それが狂わされてしまっている感じがするのだ。

もちろん、五輪だって、高校野球にだって、まったく関心がないというわけではない。けっして無関心じゃないのだけれど、この状態がなお2週間以上つづくかと思えば、少々うんざり気味の私なのだ。


<連句の世界−安東次男「風狂始末−芭蕉連句評釈」より>

「梅が香の巻」−18

  町衆のつらりと酔て花の陰 

   門で押さるる壬生の念仏  芭蕉

次男曰く、壬生念仏は、京都壬生寺で陰暦3月14日から24日まで-現在は4月21日から1週間-行われる花鎮めの大念仏法会である。正安2年-1300年-、同寺再興の祖円覚が営んだのに始まると伝えられる。期間中、境内の大念仏堂では壬生狂言が催される。鰐口・締太鼓・横笛の囃子で舞い、物真似を演じる黙劇二十番である。

句はその壬生寺の境内の押しつ押されつしている善男善女の群を付けている。
「門」は、モンと読む注釈が多いがそうではあるまい。カド、門前の庭である。出入口と解すれば狭いと理由をつけるしかなく、下手な意味付になる。境内なら、「花の陰」を見咎めて鎮めと即応した付と読める。どちらの解が面白いか、較べるまでもあるまい。

鎮花法会は疫病駆除のために修するものだが、もともとは、桜の花を五穀の花に見立てて花の散るのを抑える意味を込めた民俗風習である。

群衆で落花を受止める、とは洒落たことを思付く。花の散り込む余地もない人群を以て抑えと見たか、いずれとも解釈できるが花見が剣気の映りなら、抑えるのも只の群衆ではなく善男善女の群である。

鎮花に境内を埋め尽す念仏を使って、二句続の陰気をまことに手際よく離れている。陽気な句だ。寺は寺でも、壬生狂言の寺とした所以だろう、と。

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