又このはるも済ぬ牢人

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−四方のたより− 記憶に残る小さな旅

17日未明の出立から19日夜の帰宅まで2泊3日、ささやかながら久しぶりにいい旅だった。
家族に加えて道連れをひとり得たのが旅の全体を賑やかなものにしてくれた。お蔭で子どもはずいぶんHighな状態で3日間を過ごしたようだった。

初日、早立ちの所為で生じたゆとりの時間を仮眠にあてるか行程を増やすか、伊吹SAで一休みしながら相談、少しキツイことになるが、道連れのアッちゃんがまだ一度も訪れたことがないという白川郷へ足を伸ばすことになった。

白川郷着はまだ7時半頃だった。世界遺産となった所為だろう、以前来た時の印象とはちがってずいぶん整備されており、人もまばらな早朝の郷を一時間余り散策。

東海北陸道をとってかえして郡上の美並町へ。眠気に襲われ、この走行が一番きつかった。美並ふるさと館の円空仏たちは、概ね初期の作品群とされ50数体を数えるが、慈愛に満ちた微笑みを浮かべる「康申」像の実物はやはり一見に値する。

つづく円空行脚は、高山市国府町の清峯寺。着いてから電話をすると堂守さんが駆けつけてくれ、施錠された堂を開けてくれる。十一面千手観世音菩薩を中央に、向かって左に聖観世音菩薩、右に竜頭観世音菩薩の三体のみだが、なるほど円空晩年の作は完成度も高く、意外に等身大近くもあり、その大きさに驚かされた。

行脚の仕上げは丹生町の千光寺。真言宗袈裟山千光寺は山腹のほど高きところにあり、飛弾八景と数えられ、正面に御嶽山を眺望する絶景ポイントがある。円空仏寺宝館には60余体の大小木仏が並ぶ。生憎と「両面宿儺」像は東京国立博物館にお出かけあって対面かなわずだったが、左右一対の門柱の如く大木を剥き出しのままに荒々しく鉈で削っただけの二体は迫力満点だ。

平湯トンネルを抜ければ奥飛騨温泉郷、その最奥部、新穂高温泉にある宿泊地のペンション着は午後5時を過ぎていた。このたびはこのペンションに連泊。

二日目は、上高地でゆったりと終日を過ごす。先ずは車で新平湯へ行き、駐車場に置いて、上高地行の直行バスへと乗換える。自然保護のため乗鞍高原スカイライン上高地はマイカー乗入れ禁止となっており、この手段をとるしかない。

大正池の入口で降りて歩き出した上高地散策はまずまずの天候に恵まれ、前方に聳え立つ穂高連峰がくっきりと際立つ。標高1500mの涼風はさすがに心地よく、梓川の流れに沿って河童橋を経て明神池まで歩き、今度は対岸側を戻ってくる。10?足らずのコースだが、立ち止まっては景に見とれ、休み休みののんびりウォーキングだから4時間近くもかかったか。

それにしても夏の上高地は人出もまた凄い。若者もかなり見かけるが、なんといっても中高年層が主力。なかには80歳を越えようかと見うけられる年配の人もちらほら、その老人らが私などよりよほどしっかりとした足取りで歩いているのだ。こちらは前日の長い運転とこの日のウォーキングで、腰は張るわ足は痛むわ、宿へ帰ると連合い殿のなかなか巧い指圧の厄介になるというなんとも情けない始末だった。

三日目、このまま素直に復路をとるのは能がないとばかり、松本へ出てさらに東進、諏訪湖岸を走り、八ヶ岳山麓の此処は蓼科高源の外れあたりか、ハセヤン王国とも呼ばれるカナディアンファームへと立ち寄る。

ほとんど廃材ばかりでなる手作りの木の家々が、森の木立の中あちらこちら、とりどりの個性を見せる異空間。
此処はまるで異形なる非日常の世界、建物であれ遊具であれ、ものみな常識破りの歪曲された線と面で構成され、懐かしさと温もりの香があたり一面匂いたつかのごとく満ちている。大人も子どももこの世界に足を踏み入れるや否や、世俗の塵芥はものみな遠のき、意識下の抑圧された心は解き放たれ、それぞれ想い想いのお伽の国の物語を紡ぎ出していく、そんな別天地だ。

昼食をかねたほぼ3時間の短い滞在に、積りに積った心の垢取りはどれほどであったうか。自身測りようもないが、小さな旅も終りに近づけば、帰路に立たねばならぬ。諏訪インターから中央道を走りはじめた頃、夕立ならぬゲリラ雨に襲われたが、一刻早ければ森の中の別天地でズブ濡れの憂き目に会ったろう、すでに車の中で幸い、これも天の配剤か。

全走行距離は1,176?。ただひとつ、昨今のガソリン高騰がなんとも腹立たしい。


<連句の世界−安東次男「風狂始末−芭蕉連句評釈」より>

「梅が香の巻」−28

  はつ午に女房のおやこ振舞て 

   又このはるも済ぬ牢人  野坡

済-すま-ぬ

次男曰く、開運祈願の甲斐もない牢人暮しを付けて二句一意とした作りだが、打越-ひろうた金で表がへする-以下三句を同一人物と読むとはこびは滞る。其人の身分を見替えた付である。句体は芸のない遣句のようにみえるが、次句の才覚に助を求める含に作意がある。

「又このはるも済ぬ」は、次を花の座と見定めているからこそ云えることだ。今年はせめて他人の花見を喜びにしよう、という思付には笑いが生れる。振舞うたのは日頃苦労をかける女房への償いには違いないが、振舞=表替も縁起かつぎである、と。


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