はつ午に女房のおやこ振舞て

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―四方のたより― 風の便り?

毎日文化センターの講座紹介一覧に「絵沢萠子・楠年明の芝居教室」なる懐かしい名を見出し、いや驚いた。

絵沢萠子とは豊満な年増女性を演じて日活ロマンポルノ全盛期を支えた脇役女優だが、私のよく知るのは松田友絵-此方は実名だろう-時代の彼女である。楠年明も「部長刑事」で永年活躍していた関西新劇の一時期を支えた役者さんだが、この二人、たしか関西芸術座演劇研究所の1期生同士で、どちらも十年近い先輩筋である。

神澤の縁で私と知り合った昭和40年当時、二人はすでに一緒に暮らしていたのだが、思わぬことから事件めいた因縁噺-いずれ書く機会もあろう-で繋がれた私であってみれば、いわば人生の遊行期にいたってともに睦まじく数年前から芝居教室をしているという風の便りならぬこの遭遇は、人さまざまなれど、雀百まで‥あるいは河原乞食云々の喩えそのままに、微笑ましく受けとめつ想いさまざま去来して止まぬ。


<連句の世界−安東次男「風狂始末−芭蕉連句評釈」より>

「梅が香の巻」−27

   ひらふた金で表がへする  

  はつ午に女房のおやこ振舞て  芭蕉

次男曰く、「福は無為に生ず」-淮南子-、諺に云う「果報は寝て待て」。「ひろうた金」を福に執成し、表替のついでに妻方の親兄弟を馳走しようという付だが、二ノ折の表九句目の作りに春の季を持たせている。

「はつ午」を持出したのは、初午詣は一名「福詣」ともいうからだ。陰暦二月の最初の午の日で、稲荷信仰との習合が古くから見られる。江戸時代にはとくに盛んになり、屋敷神として稲荷祠を祀る家も少なくなかった。一方、女房は亭主の裏方だから、その身内を「振舞」えば裏を表に出すことになる。

元禄2年9月、細道からの帰途伊勢の遷宮を拝んだ俳諧師は、これと同じ興の句を既に詠んでいる。
 「月さびよ明智が妻の咄しせん」

月は兼三秋に遣える季語だが、「月さびよ」といえば深秋、その「月さびよ」に夫ならぬ妻を取合せれば、名月に二夜-九月十三夜-の興を生む、というところに非凡な句眼がある。

「伊勢の国又玄が宅へとどめられ侍る比、その妻、男の心にひとしく、もの毎にまめやかに見えければ、旅の心やすくし侍りぬ。彼日向守の妻、髪を切て席をまうけられし心ばせ、今更申出て」と、前書をつけて「勧進牒」-路通編、元禄4年刊-に収め、詞を「将軍明知が貧の昔、連歌会営みかねて侘侍れば、其妻ひそかに髪を切りて会の料に備ふ。明知いみじくあはれがりて、いで君、五十日のうちに興にものせんといひて、やがて云ひけむやうになりぬとぞ」とし、句後に「又玄子妻にまゐらす」と書添えた自筆懐紙も遺っている。

島崎又玄は伊勢山田の人、俳諧のたしなみがあり、芭蕉とは既に昨年-貞享5年2月-の参宮の折、一座興行の経験もあった。元禄2年の時は滞在中の宿を供し、後年、木曽塚にも芭蕉を訪ねている。

細道の旅を終った俳諧師が、曾良と路通を伴って大垣から木因の仕度船に乗ったのは9月6日、伊勢に着いたのは11日である。内宮の遷座は前夜の内に終っていた。その気になれば10日に充分間に合った筈なのに、わざわざ外して13日夜の外宮遷座だけを拝んでいる。同じ式行事を二度見るのが煩わしかったか-内宮には13日昼輭参詣している-。兼て、今度の旅の仕上とも云うべき、仲秋の名月を取りこぼした俳諧師らしい思付でもあったと思う。八月十五夜敦賀は生憎の雨だった。一方、九月十三夜は「月の気色莞爾たり」と、曾良の日記に書いている。宿に戻ったのは真夜中過ぎで、名残の月も入に近かった。

句は其夜のものに違いない。旅も後、月も後、遷宮も後、おまけに祭神が豊受姫天照大御神の裏方-御食津神-とくれば、亭主思いで、その上なにくれとよく気のつく妻女に迎えられて、句興の一つも湧かぬほうがおかしい。望月には成れぬもう一つの月の有様に芭蕉はいたく感動したのだろう。「その妻、男の心にひとしく」と俳諧師は書いている。まったく憎いことを云うものだ。

それにしてもどうしてまた、伊勢女でもない光秀の妻を、わざわざ持ち出したのだろう。ガラシャの母は、細川家記によれば、美濃土岐の地侍妻木氏の一族とある。読者のこの問が挨拶句の第二の見所である。

山崎で敗れた惟任日向守が、小栗栖で土民の手にかかったのは天正10年6月、おなじ十三夜の夜である。このとき光秀は坂本城へ急ぐ途中だったから、凶変がなければ妻子の待つ城で、彼がこよなく愛した琵琶湖の望月にも一度会えた訳である。-数奇の限りを尽した名城は、15日夜、弥平次秀満の放った火の中に滅んだ-。

敦賀で雨に祟られた男が思い出したのは、まさにこのことだったに違いない。浪人時代の光秀に風雅の志を遂げさせたという妻の献身ぶりも、右の滅亡秘話を下に敷けば納得がゆくし、伊勢と多少の関わりのあった光秀の連歌好みのことなど、当座又玄との会話にのぼったに違いない。

「はつ午に女房のおやこ振舞て」とはそういう気配りを俳にする男の作だが、この付句にははこびの、大切な狙いがある。

「梅が香の巻」が素春起しだとは先にも述べたとおりだが、知っていて春季に移すからには、当座のこと名残の花も亦表替えすることを計算の内に入れていなければ出来ない。その座は、芭蕉自身の巡に当る表十一句目-春三句目-、つまり、繰上げて空き家となった月の定座以外にはない筈だ。そこまで先を読んだうえでの作の工夫である。いきおい、映えのよろこびを取上げられた-譲ったと云うべきか-野坡が、挙句前の花の定座ではたしてどんな埋合せを見せてくれるか、いずれの楽しみも生れるだろう。破天荒な-後にも先にも全く例を見ない-この趣向の意義についてはあらためて更に説く、と。


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