魚を喰あくはまの雑水

080209016

―四方のたより― WFの灯

9年前に鬼籍の人となった中島陸郎氏が専属プロデューサーとして‘93年3月の柿落し以来15年余、関西の小劇場演劇を支えつづけてきたWF-ウィングフィールド-、その小屋を閉館という港に向けます、と公言し、「ウィングフィールドをやめる訳」と題して経営者の福本年雄氏自身が直々に話をする、という呼びかけで開かれた昨夜-8/25-の異・同分野交流サロン「月曜倶楽部」、馴染みの4間×7間ほどの黒壁の空間は、駆けつけた演劇関係者や小劇場ファンら150〜60人で超満員を呈した。

桟敷席に身体を寄せ合うように詰め合った聴衆を前に、福本氏の語ったところは、「やめる訳」から一転して「120%やめたくない、やめないためにどうあらねばならないか」へと変じていた。

閉館の公言以来この日まで、意想外に多くの激励と支援の声が届けられていたのだろう。それらの強い声に背中を押されるように、重い現実の前に一旦は挫けそうになった心をもう一度奮い立たせ、彼は閉館の意志を翻したにちがいない。

席上、支援の声を挙げる熱い思いは大きな束となって、福本氏が列挙したギリギリの採算分岐点となる条件は、その期限において未知数だとしても、当分の間クリアしうるものとなるのではないかと覗えた。

だが、陥穽は他にもありうる。危機は別なところからも突然起こり得るということが、この日の福本氏が語った、あまりにも正直な、あまりにも私的なカネの話-財政事情-から否応もなく浮かびあがってくるのだ。

WFはその名も「周防町ウィングス」というテナントビルの6階にある。WFの運営は有限会社として法人格、代表権は福本氏にある。WFの大家にあたるビルもまた福本氏の個人所有である。要するに、大家のビル経営は個人事業、店子のWFは法人と一応別の事業だが、ともに代表権は福本氏にあることから<親>と<子>に等しく、一蓮托生の構図から免れないわけだ。

この日集まった諸氏を軸に運動的な展開で支援の輪をひろげつつWF-<子>-の財政的な再生を実現させたとしても、ビル経営-<親>-の財政規模からすれば一部の健全化にすぎないということであり、<親>サイドから危機的状況は生まれえないのかどうかが問題なのだが、彼のあまりに正直な、あまりに私的なカネの話は、肝心の<親>の財政事情もまた自転車操業同然であることを表白してしまっていた。

福本氏の語ること、彼のスタンスというものに、あまり脱中心化されていない人なのだな、といったことを私は先ず感じていた。自分自身を省みずにいうなら、あまり素直で正直なというのは自己中心に傾いており、50歳を過ぎて世間をわたる事業家としては危ういにすぎよう。

おそらく本音のところ彼は、<子>の事業、小劇場としてのWFの運動的連帯に自分のすべてを賭していきたいと念じているのだろう。とどのつまりは<子>のために<親>はどうなってもいいとさえ思っているのではないか。だがこの場合、<親>が健全であることをつねに担保されていなければ、<子>の育成を保証しつづけることは不可能なのだから、彼の<子>への思い入れが強まれば強まるほど、破綻の危機は大きく孕みゆく構図となろう。その構図から逃れでる策をこそ考えださなければならない筈だが‥。


<連句の世界−安東次男「風狂始末−芭蕉連句評釈」より>

「梅が香の巻」−32

  どの家も東の方に窓をあけ 

   魚を喰あくはまの雑水  芭蕉

次男曰く、「なは手を下りて青麦の出来」は次をどのようにでも起情できる作りだが、避けて野坡が「どの家も東の方に窓をあけ」と、大切な裏入の初にもかかわらず穏やかに景を付け伸したのは、ただ単に情の取出しを次に譲ったのではない。家々の佇まいが印象づける採光の含を読取ってほしい、と需-もと-めているのだ。

当然、ふさわしい場所の見定めが必要になる。需められて芭蕉は、「浜」と答えている。「浜」とは細道後の俳諧師にとって琵琶湖南以外にはない、という点がこの作りのみそである。

雑水は雑炊と通用されるが、正しくは増水と表記し、雑水・雑炊共に当字である。いくら気に入った土地とはいえ近江にも少々飽きた、と句は釈-と-いてよかろう。だから江戸に帰ってきたとも、「ひさび」「猿蓑」のあと、上方俳諧鳴かず飛ばずだとも読める作りで、いずれ双方の気分が掛っている。

この句には下敷となった興があるようだ。
翁の堅田に閑居を聞て、「雑水の名どころならば冬ごもり」−其角
の句が「猿蓑」に入っている。芭蕉はもとより、其角から手ほどきを受けた野坡もこの句を知らなかった筈はないが、俳諧師に「病雁の夜寒に落て旅寝哉」の嘆を生ませた例の堅田行は、元禄3年9月13日以降、義仲寺帰帆は25日夜である。消息が江戸にもたらされたときは既に冬だった。「冬ごもり」の句は、或物懐かしさを呼び覚されて、さっそく京の去来宛にでも書き遣ったものらしい。

じつは、其角の父東順は堅田の出で、もと膳所藩の儒医である。元禄元年冬、其角は堅田を訪ねている。二度目の西上の折、偶々叔母宗隆尼の死を知らされたことがきっかけだったか、「いつを昔」-其角編、元禄3年刊-に「千那に供して父の古郷堅田の寺へとぶらひけるとて」と、家集「五元集」には「宗隆尼みまかり給ふ年、千那にぐして堅田へ行とて」と前書をつけて、「婆に逢にかゝる命や勢田の霜」なる悼句を収めている。

「翁の堅田に閑居を聞て」と前書した其角の句には、先生も千那-本福寺住職-を頼ってゆかれたか、という共感の愉快がある。「雑水の名どころ」は冬籠りに取合せた其角流の洒落だろうが、堅田は中世以来、琵琶湖の漁業権をにぎっていた近江の主要港である。雑炊自慢をしてもおかしくない土地柄だ。

「東の方に窓をあけ」るのは堅田浜の家構えだと芭蕉は云っている訳ではないが、魚雑炊の句を付けて、二人の話が「猿蓑」入集の其角の句や、3年9月の堅田病臥のうえに及ばなかった筈はない。

猶、芭蕉には「雑水に琵琶きく軒の霰哉」、元禄6年と推定される吟もある-在深川-。この「琵琶きく」は、琵琶湖に掛けた空想の戯れかもしれぬ。いや、そうだろう。4年冬に帰江した俳諧師は、「琵琶きく」を擬して俳となし、湖南の冬を恋しがっている、と読める句である。

「魚を喰-くひ-あくはまの雑水」は短句ながら、一所不住の境涯を孕んだなかなかの佳句のようだ、と。


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