霧下りて本郷の鐘七つきく

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Information<四方館 Dance Cafe>

―世間虚仮― 岡田昭三の憤死 Soulful days -9-

岡田昭三君の急死を私が知ったのは8月31日の日曜日だった。通夜がその前の木曜日-8/28-、本葬がその翌日執り行われたというその死は8月26日であった。昭和26年生れの享年57歳、若すぎる死である。惜しまれる死である。思いもよらぬその報に愕然とし胸鬱がれた。

岡田昭三、彼は、私が港へと転身してからの、いわば第二の人生で知己を得た多くの人々のなかで、その直観力や包容力、人としての器量において、私の心に印象深く刻まれた者の一人であった。大いにSympathyを感じうる知友であった。知り合って3年も経った頃か、市従港湾支部の書記長から本部執行委員へと転身、市庁地下1階の市従本部に詰めるようになって、お互いの接点が希薄となりなかなか会える機会もなくなったのには、ときに些かもの侘しいような思いが吹き抜けたものである。

たしか広島出身と聞いた記憶がある。精神の早熟が波乱の立身を求めたか、高校を出てまもなく大阪へ来たらしく、28歳で港湾局の現業職に就くまでのほぼ10年、いろいろな職に就き、昼も夜も働いてきたという。接客業のバーテンなども経てきていると聞いたから、身一つの苦労をよく知っている人とみえた。

浄光寺の麻生さんも、彼の二児がアソカ学園に通っていたことから知り合い、よく気脈の通じる人と感じていたようで、彼と膝を交えると岡田君の噂がたびたび出てきたものであった。その麻生さんは、彼の急死を私が話題にするまで耳に入っておらず、彼もまた驚き歎じ入っていた。

岡田昭三の死は、憤死であろう、あるいは爆死ともいえよう。

彼は2005年の夏から、大阪市従業員労働組合のトップ、執行委員長になっていた。それ以前、99年からの3期を書記長として奔走してきたから、大阪市財政破綻を機に、ヤミ専・ヤミ給与やらのさまざまな職員厚遇問題が、逆風の嵐となって組合攻撃に集中してくるほぼこの10年を、労組中枢のトップとして辛酸を舐め尽くすような闘いの渦中に居つづけたことになる。

その陰で、もうずっと、数年も前から彼は激しい腰痛に悩まされていたと聞く。松葉杖に頼り、車椅子での移動生活が常態であったという。何年前だったか、私もまた彼の松葉杖姿に二度三度と出会したことがあった。腰痛とガンの転移、とくに骨髄ガンとの相関はよく知られるところだが、彼の身体内部でガンの転移が進行し、もはや自分の命は時間の問題、末期ガンであることを、彼も内心はよく承知していた筈だ。

彼の急死を聞いてから何日か経った夜、私はネットの大阪市従労組サイトを開いて、飽かず眺めてみた。どうやらこのサイト、彼の委員長就任から新しくレイアウトされたようで、彼の肝煎りで作られているというのが、いくつかの頁からよく伝わってきた。ブログもあったので、月に二度か三度ばかり言挙げしている3年前からの記事を追って読んでいくと、なんとほとんどのものが委員長自身、彼みずからの書き込みであった。

これには驚かされた。激務と闘病の日々のなかで、彼自身なにを考えどう動いてきたか、具体的には書けないことが多かろう筈の組合業務のなかで、彼の思いの強さ、誠実さと直向きさが匂い立ってくる感があった。

ブログの記述は3月4日が最後となったままである。8月26日の急死にいたるまでの5ヶ月あまり、死に直面しつつ彼はどう生きたのだったか。

そのブログの最後に、今夜、といってもすでに27日未明に近く、ほんの恣意にすぎない門外漢の弁だが、コメントを付せさせていただいた。


岡田昭三君、ほんとうにごくろうさんだったネ。
港湾支部から本部執行委員へと転じてのち、
書記長から委員長のほぼ10年、冬の嵐が猛り狂うなかを、
自身、病魔に襲われ苦しみぬきながら、さらにいえば、いつ襲いかかるともしれぬ、死の恐怖と向き合いながら、
よく闘いぬいてきたものと、
棲む世界をたがえる者ながら、感じ入っています。

どうやら、ほとんどが君自身の手で書き継いできたとみられるこのブログ、夜を徹して初めから走り読みさせて貰いました。
君の、最後の2年間の日々を、此処からさまざま追想させていただきました。

いつか、もっと年がいってから、闘いの職務から解放されて、ひとりの自由人となった君と、さまざま接点をもてるものと、心に期すものがあったのだけれど‥。
残念だ、無念だ。

それにしても、組合員1万を率いるという大阪市従労組委員長の死を、新聞各紙は報道しないものなんだネ。
社会においてその影響は大なるものがあろう労組幹部という存在は、日蔭に咲く花か、この世間というやつはそんな扱いをしているんだということに、いまさら気づかされて驚かされたようなしだいだ。

心より哀悼の意を捧げます。合掌。


<連句の世界−安東次男「風狂始末−芭蕉連句評釈」より>

「炭俵の巻」−15

   血刀かくす月の暗きに  

  霧下りて本郷の鐘七つきく  杜国

次男曰く、月を冬から秋に奪い、場と刻を設けた付である。

本郷は一郷の中心地、あるいは生れ故郷の意だが、なぜ「本郷」などという詞をここに持ち出したかわからない。とすると、これは江戸本郷のことか。

「越人注」「秘注」をはじめ、多くはそう解している。それでも納得できるわけではないが、「鐘七つきく」は申の刻-午後4時頃-ではなく、寅の刻-午前4時頃-だろう。折からの七点鐘をたよりに有明空の方をうかがうと、霧につつまれて本郷の杜があったという句作りで、こういう視点は新吉原からの帰り道なら相応しかろうか、というようなことを何となく想像させる。

「血刀かくす」を刃傷沙汰とでも読取り、世話物の趣向の一つもそこに嵌めれば、筋書きはたやすく思い浮ぶ。杜国の狙いは、できるだけ通俗の仕立てによって、陰々滅々の鐘の音を聞かせるつもりだったか。そうとでも読まなければ、こんな句は解釈の仕様もない。二句、恐怖のだましをたのしむ即興のやりとりであろうと思う。深く考えるには及ぶまい、と。


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