白燕濁らぬ水に羽を洗ひ

Alti200601001

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林田鉄のひとり語り「うしろすがたの山頭火」


―世間虚仮― Soulful days -11- 不慮の死と、山頭火

台風一過の所為か、昨日も今日も、どこまでも蒼穹の空、まさに秋天といった趣で、この澄みきった空の如、心も晴れわたれば言うことなしなのだが、身内の不慮の死という出来事に遭ってまだまもないとあれば、未だ憂悶の情に駆られ、由無しごとに囚はれては我に返る、といったありさまなのも致し方ないか。

そういえば、井上靖がかの成吉思汗の生涯を描いた「蒼き狼」の「蒼」とは、本来、黄色にちかい色、天の神の色なのだと、近頃読んだ書のなかにあったが、さすれば、古来中国における如、東西南北に青竜・白虎・朱雀・玄武を配し、それぞれ青・白・赤・黒で表し、その中心は黄色とされるということや、東南アジアにみられる南伝の仏教僧の衣が黄色っぽいものであるのも、同根の想かと思われ、天どこまでも高く澄みきった蒼穹の彼方に、人間の眼では到底正視しえぬ色、否、色にはあらず、光の束をこそ感受しなければなるまい、と思われるのだが‥。

身内の不慮の死といえば、山頭火こと種田正一においても、その生涯に大きく影を落としたであろうと思われる二つの死がある。

一つは巷間よく知られるところの、母フサの自宅裏庭の井戸への投身自殺であり、この事件は数え年11歳の時で、12月生まれの彼は今でいうならまだ幼き9歳の春であった。未だ幼い少年時に非業の死でもって生き別れとなった母への追慕の情は、山頭火の遺した日記や散文の随処でさまざま触れられており、人みな彼の果てなき放浪さすらいの生涯に母の面影を慕ってやまぬ傷心を見いだす。

もう一つの死は、弟二郎の自殺、縊死である。
正一には、1歳上に姉フク、3歳下に妹シズ、5歳下に弟二郎、6歳下に弟信一がいたのだが、末弟の信一は5歳になるやならずで病死している。その前年の春、どういう家内事情であったかしれぬが、二郎は他家へと養子にやられている。まだ学校にあがる前の6歳であった。その後、この二郎と正一のあいだに、なんらかの交渉があったか、皆目なかったのかは、山頭火自身の著作はもとより彼に関わる文献からも、ほとんどなにも伝わってこないようである。

二郎もまた、父竹治郎の放蕩を元凶とする大種田破綻によって翻弄されるがまま、悲劇の人生を送った薄幸の人であった。大種田最後の砦であった種田酒造の破産は、養子先を追われるという災厄となって二郎までも見舞ったのである。依るべきものとてなにもなかった孤独な彼は、幼くして別れたままの兄正一を頼って、一時は熊本の山頭火の許に身を寄せていたらしいが、それと知れるのも、以前にも紹介したが、郷里近くの愛宕山中で人知れず縊死した際、山頭火へと宛てた遺書に2首の短歌が付され、詠み人として「肥後国熊本市下通町1丁目117の佳人」と記されていたからである。この住所は妻サキノとともに雅楽多の店を営んでいた山頭火自身のものであったのだ。

悲惨このうえない二郎の自殺は、大正7年の6月半ば、この時、山頭火は数え年の37歳、二郎は32歳という若さであった。弟の自死について山頭火はとくになにも書き残してはいないが、彼を不安のどん底に突き落としたであろうことは想像するに難くない。この頃は、彼もまた死の誘惑に捕われつつ、酒に溺れては泥酔の数々、狂態の日々を重ねるばかりの暮しであったことが随処に覗えるのである。

そして1年後の大正8年秋、山頭火は突然、妻子を置き去りにしたまま、憑かれたように東京行を敢行、以後、あの関東大震災の騒擾のなかで憲兵隊に捕縛、投獄される事件を終尾とする、単身のまま大都会にただ埋没し彷徨しつづける東京漂流の4年間を過ごすのである。

おのが身内の不慮の死に遭って、山頭火自身は言わず語らずの、というより語りえぬというべきであろう弟二郎の縊死が、彼の心にどれほどの衝撃を与え、無意識の闇にさらなる影を落としたのか、などと想いをめぐらせていると、山頭火の破滅的ともいえる単身上京、東京漂流へと駆り立てたものが奈辺にあったのか、仄見えてくるような気がするのである。


<連句の世界−安東次男「風狂始末−芭蕉連句評釈」より>

「炭俵の巻」−19

   僧ものいはず欵冬を呑  

  白燕濁らぬ水に羽を洗ひ  荷兮

次男曰く、前句に悟道の老僧の面影が現れるのは、荷兮のこの付だ。

見究め肝要。仕立の見所は、霊験ありげな薬餌に瑞祥を以て付けたか、ヤマブキを呑む虚に白燕の虚を合せたか、いずれに解しても道は同じところに出る。

白燕のことは中国の文献にも見えるが、「日本書紀」や「続日本紀」にもしばしば出てくる。ほかに白雉・白鳳・白烏・白雀・白巫鳥・白茅鴟-ふくろう-など、白字を冠した瑞鳥は珍しくない。

荷兮の句の「白燕」はとくに故事を踏えたというのではないかもしれぬ。
また、「濁らぬ水に羽を洗ひ」と作ったあたり、羽衣伝説が念頭にあるのかもしれぬ。李時珍の「本草綱目」の燕の釈名に云う、「人、白燕を見れば主に貴女を生む、故に燕は天女の名あり」。

「欵冬を呑」を、病僧の躰から天運を占う行法に見替えて、瑞祥を付けたと解すれば、これなど恰好の作意になる。因みに、次句-重五-の作りは瞭かに時珍釈名を踏まえているだろう。

いずれにさぐるにせよ、折立にふさわしい起情・転調の見られる句である、と。


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