樫檜山家の体を木の葉降

Alti200651

INFORMATION
林田鉄のひとり語り「うしろすがたの山頭火」

―表象の森― 近代文学、その人と作品 -3-
吉本隆明「日本近代文学の名作」を読む。

江戸川乱歩と「陰獣」
「陰獣」は乱歩の他の作品と同じく、仮面を巧妙に生かした小説だ。この作品のきわだった特徴は、大正から昭和初期の時代性を感じさせることである。

大正デモクラシーや大正ナショナリズム吉野作造や大山郁夫の民本主義にしても、美濃部達吉天皇機関説にしても、仮面と同様、作り物といった感が拭いきれぬ。天皇というものに「機関」という仮面を被らせたのが、天皇機関説だと言えそうだ。乱歩の小説で、登場人物が仮面を被った途端に人格が変わるのと、絶対的に神聖な天皇が、機関という仮面を被ると全く別なものになるのと、よく似通っているように思える。

横光利一と「機械」
彼の小説は「機械」を境に前期と後期に分けられる。前期の小説からは溢れるほどの才気が感じられ、モダニズムの一方の旗頭的存在であった。意識的に粘っこい文体で描かれた理知だけの人間の絡み合いの描写は、機械の歯車の狂いを比喩させている。フランスの心理主義文学を移入していた当時の影響下で、彼の才能と資質の兆候を微妙な釣り合いで総合した作品だった。

「機械」以後は、意識して人工的に作った知的部分が消えていく、いわゆる小説らしい小説に、その頂点と言えるのが「紋章」である。彼の「四人称小説」といい「純文学にして通俗文学」といった「純粋小説」の主張から生まれ出た結晶と言っていい。

川端康成と「雪国」
初期のモダニズム的な作品から日本の古典主義的な美意識に連なる作品へと転換していく最初の優れた小説として位置づけられるのが「雪国」である。

彼の小説における男女の関係のあり方、あるいは自然への対処の仕方、物への接し方など、対象に対する「浸透力」が特徴だと言える。中性という概念を幅広くとると、登場する男も女も、その中に囲い込まれてしまうと思える。性の物語を描いても、性欲の葛藤が物語になるのではない。男女が互いに浸透しあう姿が、作品の主眼になる。

川端康成の「浸透力」を、岡本かの子の「生命力」と比較してみるのも面白い。かの子も性を性欲の葛藤としては描かない。生命力の問題として捉える。彼女は仏教に造詣の深い作家なので、その思想が背景にあるのだろう。

「雪国」にはドラマティックな起伏や葛藤はあまり存在しない。そこには駒子と島村の淡い交情が描かれているだけなのだが、文体の間から、浸透力がさまざまに表現されているのを感受すると、見事な作品に思われてくる。なまめかしくてつややかな文体の底に、細かい網の目を通っていくように、対象の肌から内蔵にまで達するような浸透力の動きが描かれている。決して粘っこくはないが、霧のようにひろがり、それが対象の奥にまで浸透して、島村と駒子の淡い交渉が一つの世界にまで昇華されて感じられる。

人間はすべて男か女かだというのは川端康成の文学の基本的な認識だが、この男と女は性欲的な存在ではないというのも、川端文学の重要な人間認識でもある。


<連句の世界−安東次男「風狂始末−芭蕉連句評釈」より>

「霜月の巻」−03

   冬の朝日のあはれなりけり  

  樫檜山家の体を木の葉降   重五

訓は「かしひのきさんかのていをこのはふる」

次男曰く、木の葉とか木の葉降るといえば、連・俳では冬の季題とされている。落葉の状態よりもむしろ散る現象のことを云う詞であるから、残り葉に覚える興もそのなかには含まれ、併せて遣う。むろん落葉樹のことで、樫や檜、松や杉などのように初夏にその葉をふるうものは、木の葉とは云わない。

「万葉」「古今」さらに「後撰」「拾遺」あたりまでは、これをまだ秋に扱っているが、俊成の「千載集」には、取合せる景物によって、秋冬双方に部類している。概ね、冬のものと考えるようになったのは、「新古今」以後のことである。これは隠遁思想流行と関係があるだろうが、やがて山居の実態が形骸化してくると、常緑樹に構えの基本を示し、配するに効果的な落葉樹をもってするという、山家らしき「体」が洛中の数寄として確立されてくる。在俗遁世の心を現すごく普通なかたちである。

重五の作りは、散るに任せた辺り一面の木の葉と考えると趣向がわからなくなる。諸評は「樫檜」と「木の葉降」との関係について、常磐木に亭主の志を見せる庭構えであるからこそ木の葉の降らせ様も活きる、という作意を見落としてしまっている。

「田家眺望」は平凡な農家の眺めなどではない、と見立てたこの第三の起情はよい着想だ、と。


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