ひきずるうしの塩こほれつゝ

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INFORMATION
林田鉄のひとり語り「うしろすがたの山頭火」

―世間虚仮― 取り出し

‘07年度から全国の小中校で完全実施されたという特別支援教育
ADHD注意欠陥多動性障害-やLD-学習障害-など、比較的軽い発達障害を含め、障害のある子どもを手厚くサポートする制度ということだが、先生の指示に従えなかったり、人の話に集中できなかったりする子に対して、突然、学校に呼び出された父母が、「お子さんを病院で診てもらうように」と指示され、狼狽えてしまうといった騒ぎが起こっているらしい。

診断を求められた子どもたちは、特別支援学級へ移したほうがよいと、担任教師らに判断されているというわけだが、この児童や生徒を特別支援学級に移すことを「取り出し」と、教育界では呼んでいるそうな。

まさに、円滑な授業の妨げとなる異物を排除する、取り除くといった意味なのだろうが、まったく不快きわまる言葉である。教師たちのこういった視線が教室を覆うなかで成立する授業とは、いったいいかなるものか、思うだに悲しくなってくるというものだ。


<連句の世界−安東次男「風狂始末−芭蕉連句評釈」より>

「霜月の巻」−04

  樫檜山家の体を木の葉降   

   ひきずるうしの塩こぼれつゝ  杜国

次男曰く、冬三句のあと、次に最初の月の座をひかえて、雑の句。其の場のあしらい付の趣向だが、「樫檜」の位を曳けども動かぬ牛に移し、「木の葉降」の位をその俵からこぼれる塩に移して、さながら宋元文人画にでもありそうな一幅の景にまとめあげている。

牛飼は垣の外を通っていてもよし、門構えの内の情景であってもよい。坂道とはかぎらぬ。たまたま牛が動こうとせぬ理由など穿つまでもないが、杜国は、前を清廉の隠士と見定めているらしく、「塩」と云い「こぼれつゝ」と工夫したのは、木の葉の降らせ様、庭の調え様にまで主の行届いた人柄を偲ばせる手立でもあるだろう。

「塩」と思いついても「こぼしつゝ」とすれば、乱雑な印象だけがのこる。このあたりの目配りは、前句が山家の「体」と設けた抑制とよく響き合っている。一句明晰、とかく安易になりやすい四句目にしては、はたらきのある作りだ、と。


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