秋のころ旅の御連歌いとかりに

Alti200601047

INFORMATION
林田鉄のひとり語り「うしろすがたの山頭火」

昨夜遅くから、このたびの山頭火上演のための、挨拶文づくりに着手、苦吟したが、漸く昼時前に成った。この一週間ほど早くせねばと些か焦り気味だったから、とりあえずやれやれだ。

―表象の森― 近代文学、その人と作品 -4-
吉本隆明「日本近代文学の名作」を読む。

・保田與重觔と「日本の橋」
彼は、プロレタリア文学が興隆した若い頃には左翼的な素養を身につけていたし、時代とともに歩んで、次第に民族主義的な思想に移っていった。例えば「エルテルは何故死んだか」、ゲーテの「若きウェルテルの悩み」について不倫の末の主人公の自殺を論じた優れた評論だが、左翼的と言ってもいい雰囲気をもっている。
「日本の橋」では、橋を主題に西欧との比較文化論を非常に説得力ある形で展開した。西欧の橋が頑丈な石造りなのは、征服者が大勢の軍隊とともに移動するための便宜であるのに対し、日本では木の橋や吊り橋で、弱くて哀れな造り、平和的なものであり、橋というものの目的意識からしてまるで異なっている。
彼の思想的特色は「本当の強さとは弱いことにある」というものだった。弱いことが日本の美の本当の特色であると終始一貫言い続けた。

吉川英治と「宮本武蔵
横光利一は純文学でありながら大衆小説の魅力も持っているものが本格的なのだといい、その本格小説をめざして限界まで行った。吉川英治は対象小説から出発し、ゲーテの「ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代」のような教養小説を書き、「宮本武蔵」で一種の本格小説の域に迫った。
大衆小説としての吉川文学は、物語性のその仮構力にある。ベストセラーとなる作品の条件や共通点を挙げるなら、一つは大衆の好奇心と作家の好奇心が重なること。もう一つは決して縦に掘らないで、横に世界を広げてみせるということである。

中野重治と「歌のわかれ」
お前は歌ふな
お前は赤まゝの花やとんぼの羽根を歌ふな
風のさゝやきや女の髪の毛の匂ひを歌ふな
と抒情を排し、プロレタリア文学理論を主体としてめざした中野重治が、本物の文学者、芸術家だと言えるのは、左翼文学の論争の中で「文学に政治的価値なんてない」とはっきり言っていたことだ。「芸術的価値の内容の中に社会性があることはあり得るが、それと別に政治的価値があって、だから主題が積極的でなければならないというようなことは全くない」と終始主張したのは彼だけだった。この人は何か強力な倫理に自分の個性をぶつけて鍛えられてしまったという印象がどこかにある。


<連句の世界−安東次男「風狂始末−芭蕉連句評釈」より>

「霜月の巻」−07

   酌とる童蘭切にいで   

  秋のころ旅の御連歌いとかりに  芭蕉

次男曰く、陣中の宴の即興を、連歌会の席の設えに執成した付である。

かりそめの会とはいえ、飾り花の一つも要る。会は宴から引続いての興と読んでもよいが-戦国武将には連歌はつきものである-いくさを離れて、場も人も読替えたと考える方が次句に工夫を促す含を生む。わざわざ「旅の御連歌」と遣ったのもそのためで、たとえ征旅でも陣中の興を「旅の御連歌」とは云うまい。

野水句から本能寺のことは当座の話題にのぼったに違いない。連歌という素材の思付はそのあたりからかもしれぬ。光秀の連歌好とりわけ大事決行を前にしての行祐、紹巴らとの百韻興行-発句は「ときは今あめが下知るさつき哉」-はよく知られている。それを踏えて、夏ならぬ「秋のころ」-秋三句目である-旅中「甚仮-いとかり-」に催された連歌を思出さないか、芭蕉は問掛けているらしい、と。


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