漸くはれて富士みゆる寺

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INFORMATION
林田鉄のひとり語り「うしろすがたの山頭火」

―表象の森― 近代文学、その人と作品 -5-

吉本隆明「日本近代文学の名作」を読む。

谷崎潤一郎と「細雪
大阪船場の旧家に生まれた四人姉妹を描いたこの小説の構想は、谷崎自身現代語訳をしている「源氏物語」から借景したものだろう。晩年の光源氏が六条院の庭を春夏秋冬の四つに区切り、妻妾たちの性格に応じてそれぞれの庭に面して住まわせるところを思い浮かべるだけで、「細雪」に与えた影響のほどはわかるのではないか。
来日したときのサルトルが、日本の現代文学で何がいいかとの質問に、「細雪」と答えていたのが記憶に残る。彼はことき、日本の女性たちがどんなふうに日常生活をしていて、どう生きているのかがよく描かれた小説だ、と評していた。

小林秀雄と「無常といふ事」
「無常といふ事」はすべて短章から成っている。小林秀雄は文章をよく推敲して書く人だ。古典を生き生きと蘇らせる批評家としての手腕は類例がない。ただ、古典の思想を思想として取り出すのは不得手で、あくまで文学、文芸として論じてしまう。それが弱点と言えば言えよう。
たとえば「一言芳談」の中から一つの挿話を引いて論じている短章がある。「一言芳談」における「疾く死なばや」という倒錯した思想は、日本の思想としては最もラジカルなものだが、彼はそんなことには一言も触れない。文芸的にはともかく思想的には一番詰まらないと思える箇所を取り上げて、文芸的な解釈を示しただけに終ってしまう。

坂口安吾と「白痴」
「白痴」は戦争中を舞台に、主人公の男の奇妙な日常を描いている。自分の家に転がり込んできた知的に障害のある女性と一緒に暮らし、空襲があるとうろうろ逃げ回る、といったものだ。戦争もウソ、戦後の平和もウソということを暗に示している、そんな作品が書けた安吾は、「無頼派」と称してどんなに戯作者風を装っても、つねに大知識人しか持ちえぬ全面性を引きずっていた感がある。
安吾の「教祖の文学」は戦後に初めて小林秀雄を批判したものだが、悪ふざけを交えながら芯が通っていて、小林の弱点をよくついていた。小林秀雄や保田與重觔も第一級ではあるが、ともに思想がナショナルなところへと収斂してしまう。比べて無頼派の文学者たち、太宰や安吾は、「身と魂をゲヘナ-地獄-にて亡ぼし得る」-聖書-人たちとして本気だった。


<連句の世界−安東次男「風狂始末−芭蕉連句評釈」より>

「霜月の巻」−08

  秋のころ旅の御連歌いとかりに  

   漸くはれて富士みゆる寺   荷兮

次男曰く、荷兮の答は宗祇だろう。
明応9-1500-年九たび招かれて越後に下向した80歳の宗祇は、翌文亀元年9月頃から発病、2年2月末宗長・宗碩扶けられ越後を出て草津伊香保に赴き、7月ひとまず江戸に着いた。その後は駿河を経て美濃へ向かう予定だったようだが、7月30日箱根湯本で歿した。

宗長の「終焉記」によれば、それより前24日から26日まで、病躯を押して「鎌倉近き所」で千句興行に臨み、これが最後の連歌になった。その「終焉記」に、越後を去るに臨んでの宗祇のことばを書き留めている、「都に帰り上らんも物憂し。美濃国にしるべありて、残る齢のかげ隠し所にもと、たびたびふりはへたる文あり。あはれ伴ひ侍れかし、富士をも今ひとたび見侍らん‥」。

句仕立の拠所はこれだろう。「終焉記」をたよりに、宗祇最後の興行場所は藤沢の富士見寺-時宗総本山遊行寺-だったのではないか、と私なら考える。

露伴は、前句を「場処事情をば転じたるのみ、別に深意あるにはあらず」と読み、次いで連歌興行が表も済んで何句か進んだころ、漸く雲霧切れて霊峰の見えてくるのを悦び合うさまだ、と解している。「連歌の中に、名山の坐に入らざるを託ちて、仙姿の我が眉を圧せんことを祈り求むる意の句なども有りしやとおもしろし」と云う、と。


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