骨を見て坐に泪ぐみうちかへり

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INFORMATION
林田鉄のひとり語り「うしろすがたの山頭火」

―表象の森― 近代文学、その人と作品 -6-
吉本隆明「日本近代文学の名作」を読む。

萩原朔太郎と「月に吠える」
朔太郎の詩は、近代詩と現代詩の分かれ目に位置する。朔太郎によって現代詩の道は開かれたと言っていい。その最初の詩集「月に吠える」の特色は、生理的な心理主義と言うべきものだが、その特徴は次の詩集「青猫」においてはすでに一部分でしかない。その後はむしろきわめて倫理的な詩となっていく。

朔太郎の詩は、二、三行で一つのモティーフを切れて、すぐ次の行から別のモティーフが始まるという書き方になっている。そういう書き方をしても詩の連続性が失われていないと思えるようになったのは、「月に吠える」が最初だった。朔太郎が始めたこの叙法は、近代詩から現代詩への転換を画する特徴的なものであった。

岡本かの子と「花は勁し」
49歳で急死した岡本かの子が小説を書いたのは晩年のわずか3年間だった。質量ともに驚くべき速さと勢いで作品を書いたかの子自身、生命力旺盛で捉えどころのない大きさをもつ女性だった。

彼女の生命力、その拠ってくるところは仏教にあり、かの子自身法華経の信者で、宗教家としても第一級の人物だったと言っていい。彼女は法華経の中でも特に二十五番目の観世音菩薩普門品-観音経-を中心に据えていた。

かの子の恋愛小説の世界で、性は生命力のぶつかり合いや和合として仏教的に理解される。男女が惹かれあうのは互いの生命力の大きさにより、男女のもつ生命力が同じだったら恋愛的な関係は成就したり深まったりするという独特な考え方になっている。人間の性格や生活のありようについても、仏教でいう五輪、地水火風空で考えているところがある。


<連句の世界−安東次男「風狂始末−芭蕉連句評釈」より>

「霜月の巻」−19

   籠輿ゆるす木瓜の山あい  

骨を見て坐に泪ぐみうちかへり  芭蕉

坐-そぞろ-に

次男曰く、野水が駕籠をわざわざ「籠輿」と作り、併せて草木瓜を取合せとしたのは、軍記の読方を改めてさぐってほしい、と次句に需めているのだろう。

木瓜の実は、盆供の中でも特別に大切なものとして古くから知られ、これを庭に植えることを嫌う風習は今に残っている。吾句の「木瓜」に実を生らせて新盆の供物としてほしい、とは誰が承けても読取れる筈の含みである。

太平記」巻2、「俊基誅を被る事並に助光が事」には斬の結末を次のようにしるす。
「-従者助光は-泣々死骸を葬し奉り、空き遺骨を頸に懸、形見の御文身に副て、泣々京へぞ上りける。北方は助光を待付て、弁殿-右少弁俊基-の行末を聞ん事の喜しさに、人目を憚ず、簾より外に出迎ひ、如何にや弁殿は、何比に御上り有可との御返事ぞ、と問給へば、助光はらはらと泪をこぼして、はや斬れさせ給て候、是こそ今はの際の御返事にて候へ、とて鬢の髪と消息とを差あげて声も惜まず泣ければ、北方は形見の文と白骨を見給て、内へも入給ず、縁に倒伏し、消入給ぬと驚く程に見え給ふ。」

この最後のところは、そのまま「骨を見て」の句仕立てだが、芭蕉は読取をより一層正確に一座に伝えんがため、「そゞろ」「漫」いずれでもなく、わざわざ「坐」と字を遣っている。これは「虚栗」風の名残には違いないが、坐という字は土の上に二人が対座する形である。状況にふさわしく、字そのものも人めいてさえ見えてくるだろう。

むろん祖型となる描写は「平家物語」にある。
「北方大納言佐殿、首をこそ刎られたりとも質身-むくろ-をばとりよせて孝養せんとて、輿を迎へにつかはす。げにもむくろをば捨て置きたりければ、取つて腰に入れ、日野へ舁いてぞかへりける。これをまちうけ見給ひける北方の心のうち、推しはかられて哀なり」-巻11、重衡被斬-。

太平記」の祖型には違いないが、芭蕉句の「泪ぐみうちかへり」に相当する描写はない。「うちかへり」という語法は、「枕草子」にも「あさましきもの‥車のうちかへりたる」-97段-と見え、ひっくり返ること、転じて卒倒することである。先の「俊基誅を被る事並に助光が事」の描写に照しても、そう考えてよいだろう。

しかし、「うちかへり」は打越の「打払」と差合う。芭蕉の技量を以てしても避けられなかったか、それとも、亡人に寄せる執着の断ちがたさを眼目とした作りで、用辞も「坐」と、対して動かぬさまに遣っているから、わざと輪廻の何がしかを句姿にもとどめて興としたか。禍を転じて福となす式の工夫は詩として充分ありうることだ、と。


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