泥のうへに尾を引鯉を拾ひ得て

Alti200601054

INFORMATION
林田鉄のひとり語り「うしろすがたの山頭火」

―四方のたより― ありがとうと自画自賛

ある人曰く
「うしろすがたの山頭火
もはや「この人こそ山頭火である」という風情。
ああ、こういう人だったんだ。
いまそばにいる。
息の音がする、体の熱がわかる。
目に映じたもの、風のにおい、空の色。
それらが、ああそうだったのですか…というふうに、
伝わってきました。
林田先輩による山頭火の解釈から、一個の「山頭火」が立ち現
れて、ひとつの世界が完結されていました。
ぜひぜひ、みなさまご覧になることをおすすめします。
舞台と客席の境界のない空間で、かなり舞台の領域に侵入し、
行儀悪く体育座りで拝見していました。
想像以上に素晴らしかったです。
林田先輩、ありがとうございました。」


また別な人曰く
「『うしろすがたの山頭火』小生も見てきました。
芝居が終わって、出さた清酒山頭火』の入った紙コップを手にしたら、
どこかで見た人が‥、 JJさんの@24さんでした。
『 林田先輩による山頭火の解釈から、一個の「山頭火」が立ち現 れて、ひとつの世界が完結されていました。』
というようにうまくは表現できませんが、
私からも 、『 ぜひぜひ、みなさまご覧になることをおすすめします。』
ほとんどがセリフによる表現なのですが、最後のフリも大変印象的でした。
カメラマンである私の視覚からみても、いいなあ、と唸りました。
九条にああいう場所があるというのも新発見ですね。
林田さんありがとう。」


じつは昨夜は最悪のコンデイシヨンであった。
その前夜は2時間ほどウトウトとしたきり、その前は4時間足らずの睡眠、こんなことでは喉によかろう筈もない。

私の声帯は、奇形もゆくところまでいって、もうボロボロである。
そんな喉の状態とはうらはらに、この頃になってようやく、自称「即妙枯淡」の語り、融通無碍の芸の域に達しつつあると自負できるようになったのも皮肉なことだが、まあ万事そんなものかと思う。

演者としての私自身、野に咲く一輪の名もない草にすぎないけれど、近頃は稽古をしていても、自在に、闊達に、もの言い、また動けるようになっているのを覚えるようになっている。
たとえどんな高名な俳優が山頭火を演じたとしても、それに負けぬだけの自負も、いまはもてるようになった。


などと、これを綴っていたのは11月30日の朝であった。
書き留めたもののBlogへupする暇もなく、二日目の舞台を務めるため、こんどの芝居小舎たるMulasiaへと出かけたのだった。舞台の出来は、初日よりもさらに自在境に遊べたようで自身納得のいくものであったと思う。芝居がはねた後の客たちとの酒宴はまことに快く愉しいひとときであった。今は懐かしの九条新道、その道筋の和食の店で遅い食事を摂って帰宅したのは午後11時頃であったろう。

その疲れ切った身体を一息休めてからパソコンに向かったのだが、どうしたことか立ち上がらない、ウンともスンともまるで反応がないのである。
とうとうその夜は諦めてゴロリと横になったが、翌朝になってもPC不調は治まらない。カスタマーサービスに電話などしては、機械内部を触ってみたりと、悪戦苦闘すれど一向駄目である。まだまる2年が過ぎたばかりだというのに、このざまはなんとも情けないが、名もなきメーカーのオリジナルパソコン、どだいMotherboard自体たいした代物じゃない。まして我が使用環境は負荷のかかるずいぶん酷いものであろうから、さらに寿命を縮めたか。

仕方なく新機を求めたが、休眠すること十日余、この間PCのみならず身辺色々あって疲労困憊の体だったが、ようやく本日Blogに復帰、無事生還というわけだ。
今日の連句「泥のうへに尾を引鯉を拾ひ得て」のごとく「鯉を拾ひ得て」となるのであれば万事めでたしなのだが‥。


<連句の世界−安東次男「風狂始末−芭蕉連句評釈」より>

「霜月の巻」−21

   乞食の蓑をもらふしのゝめ  

  泥のうへに尾を引鯉を拾ひ得て  荷兮

次男曰く、陰の極ゆえ陽転の兆しを「しのゝめ」含ませた荷兮の注文を承けて、泥中に思いがけぬ鯉を拾うと作った、瑞祥の趣向である。

とくに巧拙を云うべき句ではないが、前に「乞食の蓑」とあればさっそく奪って己の用とし「泥のうへに」「尾を引」と大鯉魚らしく匂わせたあたり、「しのゝめ」の心をよくつかんでいる。

露伴は「前句を奪ひて転じて附けたり。乞食の蓑に拾得たる鯉を裏-つつ-みて持つとなり。尾を曳く亀は荘子に出づ。寧ろ死して骨を留めて而して貴きを為さんか、寧ろ其れ生きて尾を泥の中に曳かん乎、とあり。それを尾を曳く鯉と作りたるは、例の諧謔なり」と云う。

荘子-秋水篇-」に見える神亀の説話は升六の「注解」にはじまり、樋口功や太田水穂、天野晴山なども拠所としている。二句一意で大愚大悟の境涯の如くとも読めなくはないが、この杜国の句は面影を云々するほど特徴のある用辞を設けてはいない。次句が見込んで用いればむしろ面白かろう、という性質の寓言である、と。


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