月待て仮の内裏の司召

080209028

−表象の森− ちょっぴり回復軌道に‥

師走から新年へと、心の内に澱のごときものが巣くって止まずといった、そんな日々が続いた。とてもBlogを綴るような気にもなれず、この1月は早くも晦日というのに、ようやく8回目の言挙げである。また読む作業もなかなか進まなかった。

やっと月半ばを過ぎた頃より、まずは読むほうがなんとか回復基調になってきてはいる。

心理的にきつい状態にあるのはあまり代わり映えがしないのだが、それも慣れることによって少しずつ身を擡げていかずばなるまい、と思えるようになったということか。


―今月の購入本―
・M.アーヴィング編「死ぬまでに見たい世界の名建築」エクスナレッジ
古代から、日本を含む現代建築まで、世界中の名建築を総ざらい。アイデアとインスピレーションを与えてくれる多様な建築1001件を、簡潔な説明と写真で紹介、とのコピーに惹かれたものの、一部に写真の掲載がないものがあるのは、少々お高い本なのだから、そりゃないだろうぜ、と愚痴の一つも云いたくなる。

吉本隆明「詩の力」新潮文庫
毎日新聞連載の、本社記者聞き書きによる、現代詩を主軸に俳句・短歌から流行りの歌詞にまでひろがる、骨太でありながら誰にも分かり易い、吉本隆明流「現代日本の詩歌」論。

いしいしんじ「ぶらんこ乗り」新潮文庫
ぶらんこが上手で、指を鳴らすのが得意な男の子。声を失い、でも動物と話ができる、作り話の天才。もういない、わたしの弟‥。ミレニアム2000に誕生した物語作家の、奇跡的に愛おしい長編メルヘン。

辻惟雄「奇想の江戸挿絵」集英社新書
今日のマンガ・劇画、アニメ大国ニッポンの源流は此処にあり、と得心させるがごとき幽霊・妖怪らが跋扈する江戸戯作黄表紙世界。残虐とグロテスクに満ちた「奇想」のエネルギーが横溢したその意匠の数々は、斬新な技法と表現のあくなき実験が繰り返されてきたものだった。

・中務敦行「曽爾の四季」光村推古書院
Photo Album、中務敦行氏-市岡13期-個展にて。
他に、広河隆一編集「DAYS JAPAN 」’09/1月号


―図書館からの借本―
・E.ガレアーノ「火の記憶−1−誕生」みすず書房
数かぎりない掠奪と虐殺と富の移動と権力闘争‥、忘れ去られた歴史のなかに埋没した記憶の、膨大なる断章の数々。「アメリカ全土の、とりわけ、蔑まれた最愛の地ラテンアメリカの、かどわかされた記憶を救い出すために、力を尽くしたい」と希求するウルグアイ出身の著者、3部作の第1巻。

・V.グリーグインサイド・バレエテクニック」
副題に「separating anatomical fact from fiction in the ballet class -バレエ教室での虚構から解剖学的事実を切り離すための-とあり、バレエの動きや姿勢を、筋肉・骨・関節という解剖学的な観点から丁寧に説明。一定の熟達者には身体技法の具体的確認作業に適していよう。

・池上高志「動きが生命をつくる」青土社
副題に「生命と意識の構成論的アブローチ」と。カオス、進化可能性、アフォーダンス、etc‥。生命や意識といった、容易に解明することのできない難問に、複雑系の科学-力学系を中心とした数理論的アプローチ-で迫る。

鈴木博之他「奇想遺産−世界のふしぎ建築物語」新潮社
書名のとおり奇観・奇景を呈する世界の不思議建築の数々を訪ね歩いたフォト・ルポルタージュ朝日新聞日曜版「be on Sunday」連載の「奇想遺産」シリーズから77箇所を選び所収している。

<連句の世界−安東次男「風狂始末−芭蕉連句評釈」より>


「花見の巻」−05

   はきも習はぬ太刀のヒキハタ

  月待て仮の内裏の司召   珍碩

司召-つかさめし-

次男曰く、月の定座である、併せて秋第一句。
連句の基本形である三吟をabcの繰返しで運べば、歌仙では二花三月のすべてがbつまり亭主の座に当る。これは偶然とも云えぬ構成の妙だが-亭主の振舞ぶりを見ることができる-、この場合月花を誰が詠んだかは興行の狙いを知る大切な見所になる。

「花見の巻」について云えば初折の三つ-月2、花1-は珍碩だが、二ノ折のむ二つ-月1、花1-は曲水が詠んでいる。分配の趣向は芭蕉の捌きに相違なく、「ひさご」撰集の性格はこの一事によっても読取れる。

「司召」とは宮中の諸官を任命する除目-じもく-で、古くは春、平安中期頃から秋冬に変え、一夜を以て終えるのを例とした。室町時代に廃止。

「月待て」は名月の頃を待ってとも、月の出を待ってとも読めるが、明月を待ってと解しておく。「仮の内裏」という以上行宮を指すのだろうが、さしづめ後醍醐天皇が延元元年-1336-12月吉野山蔵王堂の西に営んだ仮宮が俤として容易に思い浮かぶ。後村上天皇の正平3年-1348-正月高師直の軍に焼かれるまでの11年間だが、このあと同郡賀名生-あのう-に宮居を移した間も含めると、南朝の吉野行宮はじつに18年以上にわたる。

前句の人物に「太平記」の俤を添わせた付と見ておくが、「仮の」が次句に誘いかける作である、と。

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