雁ゆくかたや白子若松

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Information−四方館 DANCE CAFE –「Reding –赤する-」

―表象の森― あかあかや

「あかあかや あかあかあかや あかあかや あかあかあかや あかあかや月」
いわずもがな、月の光の明るさ、冴えわたるさまを詠んだ鎌倉期の僧明恵の作で、対象-月-に向かいおのれを全投入して言葉を発すればこうなると、いかにも禅機めいた詩句だが、嘗てノーベル賞を獲た川端康成が、その授賞式のスピーチで引用紹介したことでも知られる歌だ。

西行が花-桜-詠みの人なら、月の歌人とも賞された明恵山本七平によれば、その伝記-明恵上人伝記-ついて、明治期になるまではおそらくもっとも広く読まれていた一書であったとされ、彼の40年にも及ぶ観行の日々での夢想を書き遺したとされる「夢記」については、ユング派の心理学をもって精緻な解釈を試みた河合隼雄の著作「明恵−夢を生きる」が良書として知られる。

その晩年を高尾山の奥、栂尾の高山寺に住した明恵が、その清規-しんぎ、寺の規律-を記した今に残る欅の掛け板には「阿留辺機夜宇和-あるべきようは-」と記されている、という。

この清規について明恵は「伝記」において、「我に一の明言あり。我は後生資-たす-からんとは申さず。只現世に有るべき様にて有らんと申す也。聖教の中にも、行ずべき様に行じ、振舞ふべき様に振舞へとこそ説き置かれたれ。現世には左之右之-とてもかくても-あれ、後生計り資かれと説かれたる聖教は無きなり。云々」と語っているが、
これを引きつつ河合隼雄は、明恵の板書が「あるべきやうに」ではなく「あるべきやうは」とされていることは、たんに「あるべきやうに」生きるのではなく、時により事により、その時その場において「あるべきやうはなにか」という不断の問いかけを行い、その答えを生きようとすることこそ大事と、今日的に言えばきわめて実存的な生き方を提唱している、と解している。


<連句の世界−安東次男「風狂始末−芭蕉連句評釈」より>

「花見の巻」−16

  秋風の船をこはがる波の音 

   雁ゆくかたや白子若松  翁

次男曰く、「三冊子-赤-」に、「前句の心の余りを取て、気色に顕し付たる也」と注する。其人の意中を、目に見る景色に托した付、と云うのだろう。

季節は晩秋-雁の渡来する頃-、目ざす船掛りは桑名と大湊のちょうど中頃にある参宮街道沿の宿場町が相応しい、と芭蕉は考えたか。旅の目的が遷宮見物とすればこれはうまく話が合うが、周知のとおり「細道」の旅を終えた俳諧師は、つい先頃、二十年めごとのこの晩秋行事を拝んだばかりである。句はこびのたねとして容易に思付いた筈の含みだろう。

白子、若松-南若松-共に中世以来栄えた古い港町だが、とりわけ近世に入り伊勢湾と江戸との廻船が発達するに伴い、伊勢木綿・伊勢型紙・江戸積干鰯などの積荷問屋と廻船問屋が軒を並べ、併せて、伊勢詣の盛行により参宮筋宿場町としても名を売った所である、と。

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