仮の持佛にむかふ念仏

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Information−四方館 DANCE CAFE –「Reding –赤する-」

―表象の森― 道化の笑い

以下は孫引きだが、坂口安吾が笑いについて論じたなかに、諷刺と道化-Farce-の違いをこんなふうに語っているそうな。

「笑いは不合理を母胎にする。笑いの豪華さも、その不合理とか無意味のうちにあるのであろう。ところが何事も合理化せずにいられぬ人々が存在して、笑いも亦合理的でなければならぬと考える。無意味なものにゲラゲラ笑って愉しむことができないのである。そうして、喜劇には諷刺がなければならないという考えをもつ。

 然し、諷刺は、笑いの豪華さに比べれば、極めて貧困なものである。諷刺する人の優越がある限り、諷刺の足場はいつも危く、その正体は貧困だ。諷刺は、諷刺される物と対等以上ではあり得ないが、それが揶揄という正当ならぬ方法を用い、すでに自ら不当に高く構えこんでいる点で、物言わぬ諷刺の対象がいつも勝を占めている。」

「正しい道化は人間の存在自体が孕んでいる不合理や矛盾の肯定からはじまる。-略-
 道化は昨日は笑ってはいない。そうして、明日は笑っていない。一秒さきも一秒あとも、もう笑っていないが、道化芝居のあいだだけは、笑いのほかには何物もない。涙もないし、揶揄もないし、演技などというものもない。裏に物を企んでいる大それた魂胆は微塵もないのだ。ひそかに裏に諷しているしみったれた精神もない。
だから道化は純粋な休みの時間だ。」

最後の一句はとてもくっきりとして秀逸、爽快感が走る。
道化-Farce-の笑いは一瞬の祝祭空間だ。腹を抱えて笑いころげるほどに‥、それがなかなか出来なくなってしまってはなんとも味気なくつまらない。


<連句の世界−安東次男「風狂始末−芭蕉連句評釈」より>

「花見の巻」−26

  双六の目をのぞくまで暮かゝり  

   仮の持佛にむかふ念仏  珍碩

次男曰く、打越と前は時分と気味の付であって、人物とその行為ではない。そこを見定めて双六打の二句一章に作っている。一日打ち暮した勝負のさまである。そう読まぬと三句絡みになる。

「仮の持佛」は、厨子に入れ旅などに持歩く小念持仏と考えてもよいが、御守でも賽でもよい。筒に入れたサイコロを振り拝んで今度こそと、良い目を念じている図は最も俳になる。

初折表五句目で「月待て仮の内裏の司召」と付けたのも珍碩だった。前は実の「仮」、後は虚の「仮」、二度の遣いはむろん意識した興である。

猶、板本に「持佛」「念仏」と遣い分けたのは同字差合を嫌ったからか。いっそ「ねんふつ」とすればよかった、と。

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