何を見るにも露ばかり也

利休にたずねよ

利休にたずねよ

―表象の森― 利休にたずねよ

昨年下半期の直木賞作、「筋立て、構造、読者をある一点に導いていく筆の力を顕賞すべき。日本の文化を根底からデザインした利休の秘密を上から下から照明を当てながら抉り出した」と評された山本兼一の「利休にたずねよ」を、どんな利休像を描いたものかとの関心から読んでみたが、久しぶりに物語を読む醍醐味を味わえた気がする。

なるほど評のように、秀吉の逆鱗に触れ切腹を命じられた利休の最期の日を、第1章「死を賜る」として冒頭に描き、以後章ごとに時間を遡行させていく手法といい、その各章を利休に関わったさまざまな人物、秀吉はじめ、禅僧古渓宗陳、細川忠興古田織部、家康や三成などの視点から多面的に照射していく描写が、「侘び」と言いながらそのじつ奔放、超然としていて容易には一つの像を結びえない利休という存在へと、その形象を立体化し深めていったように思われた。

だが、物語-虚構-の中心軸となっている緑釉の小壺に秘められた若き日の利休-青年与四郎-と高麗の麗人との恋と死の顛末については、その描写に具象性が過ぎたか、却って興味が殺がれた感がどうしても残り些か不満。


<連句の世界−安東次男「風狂始末−芭蕉連句評釈」より>

「灰汁桶の巻」−16

  町内の秋も更行明やしき  

   何を見るにも露ばかり也  野水

次男曰く、秋三句目で、次は花の定座である。「露」を取出したのは、季移りの必要上、次座への持成だと容易にわかるが-露は三季に執成せる-、「いづこを見ても」となぜ上七文字を作らなかったのだろう、と思う。

理由は三句が時分と場に縛られた一つの眺めになり、そうすれば、前二句の人情仕立てを読取ってこそ現れるせっかくの興を消してしまうからだ。「何を見るにも」は無常含み、虚の作りである。したがって「露」は空家の景のうつりではなく、情のうつりだ。「いづこを見ても」「何を見るにも」、どちらでもよい作りのようだがプロにはプロの目がある、と。

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