さみだるる大きな仏さま

Santouka081130020

山頭火の一句−大正15年初夏か

同年4月14日、山頭火は木村緑平に宛て、
「あはただしい春、それよりもあはただしく私は味取をひきあげました、本山で本式の修行をするつもりであります。
出発はいづれ五月の末頃になりませう、それまでは熊本近在に居ります、本日から天草を行乞します、そして此末に帰熊、本寺の手伝をします」
とハガキに書いた。

彼は曹洞宗本山の永平寺で本式の修行を欲していたようだが、この折、越前行は果たされなかった。


―表象の森― 唐十郎雑感

一昨日、旧知の女友だちからMailを貰って知ったのだが、25.26日と唐十郎率いる唐組の芝居が難波の精華小劇場-元精華小学校内-に掛かっていたらしい。

その彼女のMail、短い感想が書かれていたのだが、
「唐において嘗ての錬金術力が落ちたのではないか」、「批評性がなくなったようで」、舞台上の唐の存在が「なんだかアイドルみたいだ」と。
それこそ十数年ぶりであったろう、久しぶりに期待を込めて観に行った彼女の印象がそうなるのは当然と云えば当然、無理はなかろうと思われた。

どんな表現も大なり小なりその時代の刻印を帯びるのものだが、とりわけ演劇というものはその時代との共振生が強い。唐十郎率いる赤テントの状況劇場は’60年代に生まれたものだし、その時代状況抜きにはあり得なかった。彼に限らず寺山修司天井桟敷も、鈴木忠志の早稲田小劇場も、佐藤信黒テントも、それぞれの表現形式や手法は独自の個性もあったが、それとともに時代との共時性があり、同質ともみえるスタイルが通底していたとも云えるものだった。

そのスタイルや手法が、時代への射程力を充分に持ち得ていたのは、実際のところは’70年代いっぱいではなかったか。’80年代に移ると状況はどんどん変質していったし、そのなかでそれらの相貌はしだいに輝きを失っていった。

彼ら4者のなかでも唐十郎は、自身で台本も書き演出もするばかりか、役者として舞台にも立つ。それだけに時代状況の変質のなかで、今の若い役者たちと同衾したところで、もはや初期にあったような濃密な共犯関係は成立しようもないことは想像に難くない。唐自身が敢えて自分の立ち位置を劇作と演出に限って仕事をするなら、今の時代と共振したもっと別な展開もあるのではないかと思われるが、彼はそうするよりも、なぜか初期からの拘り、どこまでもその姿勢を貫こうと、捨てきれないままにあるようだが、それがどれほどの意味があるか。

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