木曽の酢茎に春もくれつゝ

0509rehea0023_3

<連句の世界−安東次男「風狂始末−芭蕉連句評釈」より>

「灰汁桶の巻」−18

  花とちる身は西念が衣着て  

   木曽の酢茎に春もくれつゝ  凡兆

次男曰く、初折の末、懐紙式で花の綴目と呼ばれる巡りである。前句は西行を慕う道心者のうえには違いないが、作者が芭蕉とあれば、継ぐ人の与奪の興は自ずと一つに究まる。

「野ざらし」の俳諧師が伊勢に、吉野に、西行の足跡を尋めたのは貞享元年秋のことだが、翌2年晩春大津から帰東の途に就き、熱田・鳴海で旬余を過したのち、中山道に入って江戸へ帰った。4月-初夏-のことである。むろん木曽路を通った。興味ある留別の吟が遺っている。

 「思ひ出す木曽や四月の桜狩 -芭蕉-」

「熱田三歌仙」-安永4年暁台編-にも「木曽を経て武の深川へ下るとて」と詞書して採録している。木曽路で遅桜を見る頃には既に春ではなく初夏だろう、と惜春に掛けて惜別の情を告げているが、芭蕉木曽路に杖を曳いて「四月の桜狩」に興じたのはこのときが初めてではなかったらしい、と知らせてくれる点でも心にとまる句だ。

この句を凡兆が聞知っていたどうかはわからぬが、「野ざらし」帰途の芭蕉木曽路を通ったことを知らなくてこういう付を披露するわけがない。事態は、花の座の師の句ぶりに発して、野水の口から懐旧談が出たのだと、と思う。「四月の桜狩」の句は去来にも初耳だったかもしれぬ。

「春もくれつゝ」は暮春のこと、春の夕暮ではない。花の綴目に相応しい取出しである。「木曽の酢茎-すぐき-」は「野ざらし」の俳諧師に寄せた挨拶の云回しだ。当時、上方や江戸で木曽の漬菜がもてはやされた、と云うような話を聞かぬ。酢茎と云えば京の名物である。「猿蓑」興行の連衆がわざわざ「加茂の酢茎」を避けて「木曽の」と取出したところに、羨望めかした含みがあるだろう。俳言である。

猶、茎漬は元禄頃からの歳時記に兼三冬の季語として見かけ、酢茎も準じて考えてよいと思うが、こちらはとくに挙げたものを見ない、と。

人気ブログランキングへ −読まれたあとは、1click−