すさまじき女の智慧もはかなくて

080209057

―表象の森―「群島−世界論」-02-

デルタと群島を結んで颱風のような螺旋運動を繰りかえす複数の歴史。その歴史とは、死者の痕跡-トラース-のことである。現在の痕跡は、死者によって残されたものであり、それを読みとるのは生者ばかりではない。というより、生者がその痕跡を読みとるためには、死者を呼びだし、自らの裡にある死者を蘇らせなければならない。ちょうど河や水路の水嵩が増減し、水底に蓄えられた泥が浮沈を繰りかえすように、私たちの内部の生者と死者は、浮上と沈潜を繰りかえしている。そして私たちが歴史という痕跡に気づくのは、私たちの死者が浮上した瞬間である。そのようにして、私たちの意識の水は、太古から、万物の浮沈の力を精緻に支配している。

群島は死者の絆である。群島を繋ぎ、群島の想像力を喚起するのは生者ではなくてむしろ死者のほうである。現世において死者を追悼し、死者に祈り、死者を祀ろうとするいかなる行為も、純粋に生者の領土での行為、生者の精神運動にほかならない。死者が語り出す畏怖に満ちた声を封鎖し、死者の現前を未然に防ごうとする生者の意識の機制こそが、死者の追悼と顕彰と呼ばれる行為の内実なのである。だがそうした生者による抑圧の網目をかいくぐって、死者たちはいまという時間にたえざる顕現を繰りかえしている。

生者のただ中で、死者は語りだす。とすれば、まさにこれら死者の語り出しの瞬間を繊細にとらえ、そこに固有の時と場を与え、国家や民族の空間に封鎖された死者の位置や意味を、海と河を繋ぐようなヴィジョンのもとに世界大に結び合わせる新しい群島の想像力を、私たちは必要としている。
 -今福龍太「群島−世界論」/2.時の疾走/より-


<連句の世界−安東次男「風狂始末−芭蕉連句評釈」より>

「灰汁桶の巻」−23

   旅の馳走に有明しをく  

  すさまじき女の智慧もはかなくて  去来

次男曰く、「すさまじ」は連・俳共に仲乃至晩秋の季、「すさまじき女の智慧」と遣えば雑の詞である。

「すさまじき、女の智慧もはかなくて」と初句切に読んで読めなくはない作りには、両義の掛がいずれあるに違いないと誰しも考えるが、それを覚らせるのは以下のはこびにおける捌き方の工夫である。とりあえずは雑二句、と見ておくのが妥当だ。

旅人を泊めたのは心尽しと見せかけて、じつはその場の言繕いで、待人は旅人とは別にいた-待てども来ず-、という読み方もできる。いずれにしろ、解いてゆけば自ずと恋の含みにゆきあたるが、ただちに恋句というわけではない。

徒然草」に、「ふかくたばかりかざれる事は、男の智慧にもまさりたるかと思へば、そのことあとよりあらはるるを知らず、すなほならずしてつたなきものは女なり。‥もし賢女あらばそれも物うとく、すさまじかりなん」

また「枕草子」には、「待つ人ある所に、夜すこし更けて忍びやかに門をたたけば、胸すこしつぶれて、人いだして問はするに、あらぬよしなき者の名のりしてきたるこそ、すさまじといふ中にも、かへすがへすすさまじけれ」と。

古くから、これらを踏まえた句作りと説く注解があるが、そんな面倒な下敷など必要とせぬ付句だろう、と。

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