分け入つても分け入つても青い山

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山頭火の一句−句集「鉢の子」では「大正15年4月、解くすべもない惑ひを背負うて、行乞流転の旅に出た」と詞書する、よく知られた代表句

放哉の「入庵雑記」を読んで彼への思慕を募らせた山頭火だったが、同じ頃、放哉は放哉で、未だ互いにまみえぬながら俳誌「層雲」を通じて以前より知る山頭火の消息を尋ねる文を、双方共通の俳友木村緑平宛の手紙の中で認めている。

「-略- 扨、「句」の事をサキに書いてしまったらなんだか、御挨拶の言葉に、何を書いてよいやら、一寸、わから無くなつた形、呵々‥コレダカラ、放哉は困るのですよ‥ムヅカシイ御挨拶は何を書いてよいやら、一寸、わから無くなつた形、呵々‥コレダカラ、放哉は困るのですよ‥ムヅカシイ御挨拶はぬきにして、山頭火氏ハ耕畝と改名したのですか、観音堂に居られるのですネ、‥「山頭火」ときく方が私には、なつかしい気がする、色々御事情がおありの事らしい、私ハよく知りませんが、自分の今日に引キ比べて見て、御察しせざるを得ませんですよ、全く、人間という「奴」はイロイロ云ふに云はれん、コンガラガツタ、事情がくつ付いて来ましてネ、‥イヤダイヤダ呵々。御面会の時ハ、よろしく申して下さい、手紙差し上げてもよいと思ひますけれ共思ふに氏ハ「音信不通」の下ニ生活されているのではないかと云ふ懸念がありますから、ソレデハかへつて困る事勿論故、ヤメて御きます」 -村上護「放哉評伝」春陽堂-

日々2通の手紙を書いたというほどの筆まめの放哉だが、もし仮に、山頭火の所在を俳友たちに尋ね合わせて、直に手紙の往復をしていたら山頭火のその後もどうなっていたか、とあれこれ想像の羽をひろげるのもまた愉しい。


―表象の森― Sylvie Guillem

ずっと舞踊に関わる身なれどBalletについてはまったくの門外漢、Sylvie Guillem-シルヴィ・ギエム-の名も知らなかったのだが、偶々YouTubeで彼女のVideoに出喰し、昨日からいろいろと鑑賞させてもらった。

百年に一人現れるかと謳われたBallet界の逸材は、12歳でフランスのオリンピック国内予選を突破するほどの体操選手であったらしい。その年にも、パリ・オペラ座のバレエ学校にスカウトされ転身、19歳で早くも花形プリンシパルの座に着いている。だがパリ・オペラ座時代は意外に短く4年に満たず、’88年にイギリスへと移り、ロイヤル・バレエ団のゲスト・プリンシパルとして迎えられている。以後はフリーとしての活動が多く、Contemporary Danceもずいぶんと手がけている。

強靱で柔軟、鍛え抜かれた肉体は、女性なればこそ却ってその研ぎ澄まされたような筋肉が、日本刀の見事な刀身のように煌めき立つ。これが男性ならばいくら鍛え込まれていてもそうはいかない。彼女の肉体が、それまでの女性Ballet Dancerの概念を変えてしまったというのも肯ける。

大の日本贔屓ですでに来日二十数回に及ぶというのに、今日までその存在を知らずとは、この舞踊家-私自身のことだ-、門外漢どころか舞踊家そのものをそろそろ返上すべきか。

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