うそつきに自慢いはせて遊ぶらん

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―世間虚仮―ゆびとま」消滅か

今月の2日、360万余の会員登録からなるという同窓会サイト「ゆびとま」がまったく繋がらなくなって、以後なんの徴候もないいままにすでに半月が過ぎ、いまだ音無し。
無論、私が04年9月から営々と続けてきたブログの「Echoo」も同じ境遇にあり、この日以後断ち切られたままだ。

アクセスすると、「重要なお知らせ」と題した数行の挨拶文が掲載されただけの画面が、却って、今度ばかりは事の深刻さを推し量らせ、虚しさをつのらせる。

その短いお断りの冒頭は「甚大なトラブルが発生したことにより、しばらくサービスを停止させて頂きます。」というのだが、この「甚大なトラブル」とは、どうやら機械的・技術的レベルのトラブル・故障といったものではなく、おそらく経営の根幹に関わるトラブル・事件なのだろう。

創立者の手を離れた’05年から、少なくとも経営者は再度の変転を見ているし、その間、機械的トラブルはたびたびあったから、いずれネットの舞台から消え去りゆくのは必至、とも見えていた。

今後、ここに集まった360万余の個人情報が否応なく地下の闇ネットにあまねく行き渡っていく。いや実際のところは、’07年2月、別件の事件からこの経営がすでに暴力団に渡っていたことが明るみになったりしているのだから、とっくに闇組織に流れていると見るのが、むしろ常識というべきだ。



<連句の世界−安東次男「風狂始末−芭蕉連句評釈」より>

「灰汁桶の巻」−27

   人もわすれしあかそぶの水  

  うそつきに自慢いはせて遊ぶらん  野水

次男曰く、
むかし、をとこ、後涼殿のはさまを渡りければ、あるやむごとなき人の御局より、忘れ草を忍ぶ草とやいふとて、いださせ給へりければ、たまはりて、
 忘れ草生ふる野べとは見るらめどこは忍ぶなり後もたのまむ

伊勢物語」の、よく知られた話-100段-である。「うそつき」の拠り所はこれだろう。芭蕉の「夕月夜」の句に打ち添うた凡兆の句振りを眺めて、まるで例の話を地でいくような踏替えだと野水ははやしている。尤も、この話は凡兆も知らなかった筈はないから、もともと「人もわすれしあかそぶの水」の下敷きだったと考えれば、野水句は、君の作意は見届けたと凡兆に告げている句になる。どちらでもよい。恋の上ならともかく、忘れ草を忍ぶ-偲ぶ-草と云いくるめる詭弁は、そうたやすく何にでも応用できる技ではない。

「自慢いはせて」には、まず、凡兆の嘘上手を認める感心があるだろうが、句はこびの上では、「御廟守る」人に、別の里人が水の在処や由緒をまことしやかに教えた、と解しておけばよい。

「らん」は、「なり」を婉曲下した云回しで、推量の助動詞ではない。とぼけに俳を持たせている、と。

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