馬がふみにじる草ははなざかり

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Information – 四方館 DANCE CAFE –「出遊-天河織女篇-」

―山頭火の一句― 昭和5年の行乞記、9月24日の項に

9月25日、雨、宮崎市、京屋
けふは雨で散々だつた、合羽を着けれど、草鞋のハネが脚絆と法衣をメチヤクチヤにした、宿の盥を借りて早速洗濯する、泣いても笑つても、降つても照つても独り者はやつぱり独り者だ。

ここは水が悪いので困る、便所の汚いのにも閉口する、座敷は悪くない、都城での晴々しさはないけれど。

  • 略-、雨は世間師を経済的に苦しめる、私としては行乞が出来ない、今日も汽車賃80銭、宿料50銭、小遣2〜30銭は食ひ込みである。幸いにして2、3日前からの行乞で、それだけの余裕はあつたけれど。
  • 略-、夜になつて、紅足馬、闘牛児の二氏来訪、いつしよに笑楽といふ、何だか固くるしい料理屋へゆく、私ひとりで飲んでしやべる、初対面からこんなに打ち解けることが出来るのも層雲-荻原井泉水主宰の俳誌-のおかげだ、いや俳句のおかげだ、いやいや、お互いの人間性のおかげだ! だいぶおそくなつて、紅足馬さんに送られて帰つて来た、そしてぐつすり寝た。-略-

―四方のたより― You Tube 第2弾

昨日に引き続きYou Tubeにupload、第2弾は昨秋の山頭火公演のPhoto Album篇。
劇中で使った山頭火の俳句をカットカットに配したもの、音は冒頭の琵琶の演奏を、最後の台詞はご愛嬌、所要時間は7分13秒、お愉しみ願えれば嬉しいかぎり。


―表象の森―「群島−世界論」-13-

歴史とは、スティーヴンは言った、ぼくがそこからなんとかして目覚めたいと思っている悪夢なんです。
−J.ジョイスユリシーズ

そして塔はみな宙空に逆さまに浮かび
追憶の鐘を鳴らし、時を刻んだ
干上がった貯水池や涸れた井戸の底から歌う声が聞こえた
 −T.S.エリオット「荒地」

原住民を人類の歪曲された子供っぽい戯曲であるかのように描く説明を許容する時代はすでに去った。この絵はまちがっている。
−B.マリノフスキー「西太平洋の遠洋航海者」

ああかがやきの四月の底を
はぎしり燃えてゆききする
おれはひとりの修羅なのか
 −宮沢賢治春と修羅

あるとき、ひとつの固有の年が群島のような姿をとって私の認識地図の海原のそこここに忽然と浮上することがある。いくつもの出来事がひとつの同じ年に収斂して生起すること−「歴史的同時現象」

この出来事は、だがむしろ、それが空間的な多様性を持った偶発的な同時性とともに生起したという地理的事実によって、私の想像力を豊かに刺戟する。「時代」という暦の支配者の見えざる操作によってそれらの同時並行現象の隠れた連関を説明する歴史的言説は、私をかえって頑なな反歴史主義者へと変節させるだけだ。なぜなら、均質で空虚な時間を満たすために招集された過去の出来事の蓄積である歴史の光景のなかにこの同時性の群島的展開をあっさりと従属させてしまうならば、出来事はすべて過去の通時的な因果関係と影響関係の問題へと還元されてしまうからである。
だが、時の群島の出現とは、むしろ私たちの「いま」が希求するアクチュアリティの意識においてはじめてその深い通底の谺を響かせる、徹底して現在時の現象なのではないか。暦年から通時的な歴史の文脈をはぎ取ったあとの、きわめて抽象的なその数字の並び合いのある瞬間に、ちょうどスロットマシンの絵柄が偶然重なるようにして、世界という海のあちこちに時を同じくして浮上する島々−。そして、それらの時の島々がいまこの現在時において、不意にあるアクチュアリティの相のもとに未知の群島=星座をかたちづくるとき、表層の歴史の因果関係を超えた時の航跡による海図が、新たな「発見法」のための地図として私たちの前に到来するのである。
 -今福龍太「群島−世界論」/14.1922年の贈与/より

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