秋暑い窓の女はきちがひか

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Information – 四方館 DANCE CAFE –「出遊-天河織女篇-」

―山頭火の一句― 昭和5年の行乞記、9月26日の項に

9月26日、晴、宿は同前-宮崎市.京屋-
9時から3時まで、本通りの橘通を片側づつ行乞する、1里に近い長さの街である、途中闘牛児さんを訪ねてうまい水を飲ませて貰ふ。
宮崎は不景気で詰らないと誰もがいつてゐたが、私自身の場合は悪くなかつた、むしろよい方だつた。
夜はまた招かれて、闘牛児さんのお宅で句会、飲み食ふ会であつた、紅足馬、闘牛児、蜀羊星、みんな家畜に縁のある雅号である、牛飲馬食ですなどといつて笑ひ合つた。-略-

―四方のたより―
今日のYou Tubeは「Reding –赤する-」のScene.2、Junkoのsolo


―表象の森―「群島−世界論」-15-

島尾敏雄ポーランドを再訪、三訪することで、民族と国家と歴史的主体をめぐる彼の固有かつ地域的な問いを、より広がりのある知的射程へと導くことができることを知った。琉球弧、フィリピン、ハワイ、プエルトリコと並んで、ポーランドは、彼にとってのそうした世界を浮上させる特別の一地点として、自身の群島地図にある時浮上したかけがえなき島だったのである。

「群島=多島海」-Archipelago-という語彙が、ヨーロッパ=地中海世界における始原の海エーゲを指す西欧的用法を超えて、近代世界における島嶼の連なりを指す一般名詞として広く流通するために寄与した最重要の書物のひとつが、博物学者A.R.ウォレスによる「マレー群島」である。この書の愛読者であり、まさに言語的変異の坩堝のようなこの海域を船員として往還したJ.コンラッドが、ボルネオ島東部域の海と川を舞台に一人の孤独な夢想家商人の野心と没落を描いた処女作が、「オルメイヤーの阿呆宮」であった。

群島の言語−。「大陸」の原理が抑圧する言語のひとつは国家的枠組みを欠いたDialectという消えかける地方言語であり、もうひとつがPidgin=Creoleというどこにもnativeな帰属を持たない浮遊する混淆言語である。そうした大陸言語の抑圧のもとに上書きされて見えなくなっていたくぐもった異語の肌理が、いま群島のVisionのなかで浮上しつつあるとはいえないだろうか? この、完全に文字言語によっては征服され得ない群島の言語を、彼らを先達として聴き取ることの可能性こそが、いま私たちのまえに拓かれてあるといわねばならない。
 -今福龍太「群島−世界論」/15.言語の多島海/より

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―四方のたより― こんどはVideo

You Tubeにuploadできる動画はおよそ10分前後以内となっているらしい。したがってDance Cafeや舞台の記録を全編uploadしようと思えば、いくつかのSceneに分割編集しなければならない。時間ばかり費やして私などにはこれが意外と面倒な作業なのだが‥。
という訳で、本日は「Reding –赤する-」Video篇のOpening Scene。


<連句の世界−安東次男「風狂始末−芭蕉連句評釈」より>

空豆の巻」−09

   晩の仕事の工夫するなり  

  娣をよい処からもらはるゝ  孤屋

次男曰く、「晩の仕事の工夫する」人を女と見定めた物思の体。薪の下、晩の仕事、娣-いもうと-と移したはこびに目配りがある。

娣と妹は同義ではない。中国古代の辞書「爾雅」の「釈親篇」によれば、娣とは同腹に生まれた姉が妹を呼ぶ称である。男が複数の妻をもつ風習のなかで生まれたことばの使い分けで、ひいては異母妹・族妹を呼ぶ場合にも、同一夫に仕える妻妾ののうち年長者が年少者を呼ぶ場合にも用いられる。正妻が妾を指して娣と呼ぶこともある。いずれにしても女同士特有の呼称であって、兄と妹という意味合はこのことばにはない。

孤屋の思付か、芭蕉の手直しか、珍しいところに目を付けたものだが、句作りは同夫に仕えるもしくは同じ男に思いを寄せる姉妹の情を云うのだろう。気遣う姉の情には内心でほっとしている安堵感もある筈で、うれしいような悲しいような、微妙な女心が伝わってくる面白い付である。「妹」ではまったくつまらぬ、と。

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