家のながれたあとを見に行

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Information – 四方館 DANCE CAFE –「出遊-天河織女篇-」

―表象の森― 山頭火のepisodeひとつ

先日、U君から届いた書面に、近況を知らせる文面とともに、山頭火の心暖まるほのぼのepisodeが添えられていた。語り手は山頭火と直かに交わりのあった大山澄太、詳細は「致知」で出逢ったいい話としてネットでも見られるようだが、大山澄太といえば、「俳人山頭火」や「俳人山頭火の生涯」、また山頭火行乞記と副題する「あの山越えて」などの著作で知られ、昭和30年代の第一次山頭火ブームの火付け役ともなった御仁である。

大山澄太−岡山県に生まれる。戦後愛媛県にて著述と社会教育に専念、教育文化賞を受ける。雑誌「大耕」主宰。平成6年(1994)逝去とあって、享年85歳というから、生年は1908年か09年、山頭火より26.7歳下となる。

この親子ほども若い大山澄太と山頭火との交りは、やっと故郷近くの小郡に落ち着けた其中庵時代にはじまる。当時、澄太は広島逓信局に勤める役人であったが、俳誌「層雲」の同人でもあった。其中庵に落ち着いた山頭火を囲んで、「層雲」主宰の井泉水はじめ、同人の仲間たちが集って句会を催したのが昭和8年3月、この折に若い澄太も混じっており、山頭火との初めての出会いであったとみえる。

以前から山頭火の句風と放浪の生きざまに憧れ、敬愛していた澄太は、以後、しばしば広島から訪ねてくるようになる。U君が紹介してくれたepisodeは、その昭和8年も暮れようとする12月の其中庵訪問記のようだ。

以下、書面より
ある年の暮れ、仕事で山頭火の庵の近くまで来たので、酒を持って訪ねました。夜まで話が弾み、さて帰ろうとすると、
「澄太君、すまんが長い間、人間と一緒に寝ておらんので、寒いぼろの庵だが、ここへ泊まってくれ」という。
寂しがる先輩を残して帰るのもなんだから、「それでは泊まろう」ということになったが、いざ寝ようとしたら蒲団が一つしかない。
山頭火が、「君が泊まるので嬉しいから寝ずに起きとる」というので、蒲団に入ったが、小さくて薄い蒲団のため寒くて眠れない。
「どうも寒くて、眠れそうにない」というと、山頭火は泣きそうな顔をして「済まんことだ」といいながら押し入れから夏の単衣を出して私にかける。
私は「まだ寒い」というと、紐のついた物を持ってくる。ようく見ると赤い越中ふんどしなんです。それを私の首に巻く。臭いことはないが、いい気持ちはしないので、「それはいらん」と取って外す。
そのうちに酒の酔いも手伝って寝てしまいました。
東側の障子がわずかに白んだ、夜明けの4時頃だろうか、私はふと目が覚めた。山頭火はどこかとこう首を回して捜すと、すぐ近いところで僕の方を向いて、じーっと坐禅を組んでいる。
その横顔に夜明けの光が差して、生きた仏さまのように見えましたなあ。妙に涙が出て仕方ない。私は思わず、彼を拝んだもんです。
さらによく見ると、山頭火の後ろに柱があり、その柱がゆがんでいる。障子を閉めても透き間ができ、そこから夜明けの風が槍のように入ってきよる。それを防ぐために山頭火は、自分の身体をびょうぶにして、徹夜で私を風から守ってくれたのです。
親でもできんことをしてくれておる。私はしばらく泣けて泣けて仕方がなかった。こういう人間か、仏かわからんような存在が、軒に立たねば米ももらえんし、好きな酒も飲めん。
そのとき私は月給の4分の1を山頭火に使ってもらうことに決めました。
山頭火が死ぬまでそうしました。

―四方のたより― 今日のYou Tube-vol.8-
「Reding –赤する-」のScene.6

<連句の世界−安東次男「風狂始末−芭蕉連句評釈」より>

空豆の巻」−12

  風細う夜明がらすの啼わたり  

家のながれたあとを見に行  利牛

次男曰く、流されたものを人から家に奪った目付がよろしく、これは俤を滑稽化し、無常を忘れるうまい工夫だ。「ながれたあとを見に行」好奇心には、むろん事件の見聞だけではなく新しく始まるものへの期待がある。つまり起情の句だ。句の解は、風も収まった明方にカラスがしきりに騒ぐから、聞咎めて出水の跡を見に行った、でよいだろう、と。

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