お経あげてお米もらうて百舌鳥ないて

Santouka081130030

Information – 四方館 DANCE CAFE –「出遊-天河織女篇-」

―山頭火の一句― 昭和5年の行乞記、10月2日の稿に
10月2日、雨、午后は晴、鵜戸、浜田屋

  • 略-、私の行乞のあさましさを感じた、感ぜざるをえなかつた、それは今日、宮ノ浦で米1升5合あまり金10銭ばかり戴いたので、それだけでもう今日泊まつて食べるには十分である、それだのに私はさらに鵜戸を行乞して米と銭を戴いた、それは酒が飲みたいからである、煙草が吸ひたいからである、報謝がそのままアルコールとなりニコチンとなることは何とあさましいではないか! -略-

岩に波が、波が岩にもつれてゐる、それをぢつと観てゐると、岩と波とが闘つてゐるやうにもあるし、また、戯れてゐるやうにもある、しかしそれは人間がさう観るので、岩は無心、波も無心、非心非仏、即心即仏である。-略-

同宿の或る老人が話したのだが-実際、彼の作だか何だか解らないけれど-、
  一日に鬼と仏に逢ひにけり
  仏山にも鬼は住みけり
鬼が出るか蛇が出るか、何にも出やしない、何が出たつてかまはない、かの老人の健康を祈る。-略-

※文中、表題に掲げた句のほかに、14句を記す

―四方のたより― 今日のYou Tube-vol.16-
林田鉄のひとり語り「うしろすがたの‥山頭火」Scene.6

―表象の森― 「群島−世界論」-20-

意識の多島海にひとたび漕ぎ出せばもはや単純な帰還はない。世界の、海底での連結の事実に気がつけば、故郷という土地は樹々からこぼれ落ちる種子のように海上に散種され、世界の無数の汀へと流されてゆく。振り向いた水平線上から帰るべき陸地が消えた時、人ははじめて未知の自由を得る。<わたし>こそが水平線であることを発見するからだ。一人一人が自らに絡みつく歴史と政治の緯度や経度が錯綜した水平線を舟とともに曳航し、その<わたし>という水平線の出逢う交点に一つ一つ島が出現してゆく。自らが引きずるのと瓜二つの水平線、時空のはてなき拡がりと炸裂のなかで未知のまま結びあっていたもう一人の<わたし>、<わたし>の分身のような水平線がどこかの海から訪れ来る。背後に置いてきた故郷ではなく、前方にかすむ起源が、未来へと向かう水平線の運動のなかに書き込まれてゆく。

「私は群島」-I am the Archipelago-、<わたし>と<群島>とを、実存をしめすもっとも確固たる等号で簡潔に繋ぐこと。このようにシンプルにして果敢な言葉を発した詩人は、エリオット・ローチ以外にいない。
 -今福龍太「群島−世界論」/20.私という群島/より

人気ブログランキングへ −読まれたあとは、1click−