一寝入してまた旅のたより書く

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Information-四方館 DANCE CAFF-「出遊−上弦月彷徨篇」

―山頭火の一句― 昭和5年の行乞記、11月8日の稿に
11月8日、雨、行程5里、湯ノ原、米屋

やつぱり降つてはゐるけれど小降りになつた、滞在は経済と気分が許さない、すつかり雨支度をして出立する、しようことなしに草鞋でなしに地下足袋-草鞋が破れ易いのとハネがあがるために-、何だか私にはそぐはない。
9時から1時間ばかり竹田町行乞、そしてどしどし歩く、村の少年と道づれになる-一昨々日、毛布売の青年と連れだつたやうに-、明治村、長湯村、赤岩といふところの景勝はよかつた、雑木山と水声と霧との合奏楽であり、墨絵の巻物であつた、3時近くなつて湯ノ原着、また1時間ばかり行乞、宿に荷をおろしてから洗濯、入浴、理髪、喫飯-飲酒は書くまでもない-、−いやはや忙しいことだ。

ここは片田舎だけれど、さすがに温泉場だけのことはある-小国には及ばないが-、殊に浴場はきたないけれど、解放的で大衆的なのがよい、着いてすぐ一浴、床屋からもどつてまた一浴、寝しなにも起きがけにもまたまた一浴のつもりだ! -略-

夜もすがら瀬音がたえない、それは私には子守唄だつた、湯と酒と水とが私をぐつすり寝させてくれた。

※表題句の外、8句を記す
そのなかに、「雨だれの音も年とつた」の句がみえる

−日々余話− Soulful Days-29- 9.17という日

17日の朝、大阪地方検察庁に向かって車を走らせていたその途中、携帯が鳴ったので車を停めた。電話の主は息子DAISUKE、彼にとっては祖母、私には嘗ての義母乃ちIKUYOの母親の死を伝えてきたものだった。
その日の朝、8時43分頃、享年92歳だった、と。

もう10年近くになるか、弁護士だった夫に先立たれてからの其の人は、徐々に痴呆症状を呈してきていたと聞く。しばらくは東京に居たのだが、IKUYOが波除に住むようになると同時に引き取って同居するようになった。IKUYOとRYOUKOとの3人暮しがはじまったわけだが、朝早くから勤めに出るIKUYOと夜になってから出かけるRYOUKOという対照的な暮し向きのなかで、近所の施設からのディサービスなどをうけながら老人の介護がとられてきたのだった。

昨年、RYOUKOの事故死が起こったその少し以前から、痴呆も重篤さを増してきていた其の人は、ショートスティを繰り返すかたちで施設暮しがはじまっていた。IKUYOは其の人にRYOUKOの不幸をけっして伝えなかった、いや伝えられなかったのだろう。其の人はRYOUKOの死を知らぬままにこの世を去ったのである。互いの命日が9月14日と17日、一年をおいてなぜかほぼ重なるようにして。

私が大阪検察庁に着いたのは、ちょうど10時、約束の時間どおりだった。2度ばかり電話で話したことのある事件を引き継いだ検察官は、先のN副検事とはまるで陰と陽、好対照の印象だった。此方の話を気さくに聞いてもくれたし、私の出した書面のその細部についてもいろいろと尋ねてきた。ただ審理については、府警の科学捜査研究所の分析結果が上がってこないかぎり、一向進まないわけで、検察はただ手を拱いて待つばかりなのだ。どうやら此方としては、干渉の矛先を府警に向けなければ埒があかないらしい。

午後1時からは、近くの喫茶店で、相手方運転手Tの父親と、昨年暮れ以来の対面。
この動かぬ局面。検察の審理はDrive Recorderの一件以来、ひたすら待つしかない。民事訴訟はゆるゆる動いたとしても、問題の本質=事故原因を審理するのは本筋でなく、これを俎上に乗せようとすれば、これまた相当の工夫と根気がいるし、はたして叶うかどうかも疑問だ。

一周忌を迎えるにあたって、私はどうにも動かぬこの局面を打破したい、と身内から衝き動かされてきたらしい。それが在日の疑惑を抱いて以来拒絶してきたTの父親との、一対一、ほぼ3時間に及んだ、直接の対話だった。

これまではいずれも事故当事者である息子Tを横に置いてのことで、その重荷から解放されての私との対面は、より率直に、より素直に、彼自身まるごと顕わにされていたようであった。もちろん私はこれまでも、Tと父親を前にして、いま彼がそうであるように、私自身をまるごとぶつけてもきたつもりである。

単刀直入、Drive Recorderの私なりの分析や所見について具にあからさまに伝えたし、この半年のあいだ私を苦しめてきた彼の在日疑惑についても問うた。彼の経歴からしてもそう考えざるを得なかったし、これを否定する彼に、経歴の一つひとつ、その経緯を質し、なお得心しかねてはまたも問うを繰り返した。在日になにがしかの偏見があったわけではない、しかし、在日なれば、いまだこの日本の現実で、あってはならぬことだが、超法規的な行為もやれぬことはない。私の頭のなかではこの半年ずっと、在日−捜査への圧力という図式が強固に成り立っていたものだから、この疑惑を打ち消すには繰り返し問い質さざるを得なかったし、またこれを氷解させるのには時間を要した。

結果、彼は在日ではなかった。これを打ち消す応答振りを、私としては注意深く観察もしたつもりだが、彼の言葉に一片の嘘も感じられなかった。最後はお互い笑顔で別れた。
いま私は、ある種の虚脱感に襲われながら、心のなかに膨張しつづけてきたこの疑惑を否定し、抹消しつつある。

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