また逢うた支那のおぢさんのこんにちは

人間臨終図巻〈1〉 (徳間文庫)

人間臨終図巻〈1〉 (徳間文庫)

Information-四方館 DANCE CAFF-「出遊−上弦月彷徨篇」

―山頭火の一句― 昭和5年の行乞記、11月12日の稿に
11月12日、晴、曇、初雪、由布院湯坪、筑後

9時近くなつて草鞋をはく、ちょつと冷たい、もう冬だなと感じる、感じるどころぢやない、途中ちらちら小雪が降つた、南由布院、この湯の坪までは4里、あまり行乞するやうなところはなかつた、それでも金14銭、米7合いただいた。-略-

もくもくともりあがつた由布岳−所謂、豊後富士−である、高原らしい空気がただようてゐる、由布岳はいい山だ、おごそかさとしたしさとを持つてゐる。-略-

此地方は驚くほど湯が湧いてゐる、至るところ湯だ、湯で水車のまはつてゐるところもあるさうな。-略- 

山色夕陽時といふ、私は今日幸にして、落日をまともに浴びた由布岳を観たことは、ほんたうにうれしい。-略-

同宿3人、みんな同行だ、みんな好人物らしい、といふよりも好人物にならなくてはならなかつた人々らしい、みんな一本のむ、私も一本のむ、それでほろほろとろとろ天下泰平、国家安康、家内安全、万人安楽だ−と、しておく、としておかなければ生きてゐられない−。

※表題句の外に、6句を記す

―表象の森― 死にざまとは生きざま

山田風太郎の「人間臨終図鑑-1」-徳間文庫、初版単行本は1986年9月徳間書店刊-を読む。

第1巻は、15歳で刑場の露となった八百屋お七にはじまり、長年テレビ時代劇の銭形平次を演じつづけた所為で結腸癌を肝臓に転移させて55歳で急死した大川橋蔵まで、延べ324名を網羅し、ごくコンパクトにそれぞれの死にざまを活写するが、まさに、死にざまとは生きざまそのもの、であることよとつくづく感じ入る。

天誅組首領として19歳で殺された白面の貴公子中山忠光、その姉の子が後の明治天皇となった。スペイン風邪から結核性肺炎を罹病した村山槐多は23歳だったが、その実自殺同然の死であったと。
安政の大獄で殺された橋本左内は25歳。大正12年、摂政宮-後の昭和天皇-を狙撃して絞首刑に処された難波大助も同じく25歳。明治維新まもなく反逆罪に問われ梟首された若き熱血詩人雲井竜雄は26歳。北村透谷も石川啄木も26歳で逝った。
日本映画創世記の若き天才監督山中貞雄日中戦争で召集され29歳で戦地に死す。「嵐が丘」を書いた早世のエミリー・ブロンテは30歳。大逆事件連座して絞首刑となった菅野すがも同じ30歳。共産党の非合法下、築地署の留置場で特高らによって拷問死に至った小林多喜二も30歳だった。
存命中はまったく認められず貧窮の内に31歳で病死したシューベルト丸山定夫率いる移動劇団「桜隊」の一員として広島で被爆した宝塚出春の新劇女優園井恵子も31歳、原爆投下の2週間後に死んでいる。因みに桜隊は丸山以下全員が原爆の犠牲となって死んだ。
敗戦後の日本人を悲しくも爆笑させた怪異珍顔の落語家三遊亭歌笑は、銀座松坂屋の前で進駐軍ジープに撥ね飛ばされ即死したが、これも31歳の若さであった。等々、拾い出せばキリがない。


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