風の音にも何やかや

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−表象の森− 蒼海-副島種臣-の書

石川九楊の曰く「副島は、紙面を外延しない限定空間として捉え、その中に社会や世界のうごめく姿を書として表出しているように思われる」と。

また曰く「副島の<筆触>は次々と転換し一筋縄ではいかない莫大な情報を盛り込んでいる。中でも「積翠堂」や「洗心亭」の作品にみられるように、とくにきしみや、ねじれをもった筆触と、強い筆触、柔らかな筆触、しかもそれが、書きながら見直され、見直されながら書かれるといった具合に、次々と劇的に展開していく」と。

また曰く「副島は、篆、隷、楷、行、草の各体が相互に混然と入り乱れる書を描き出している。彼が各体に無頓着であったというわけではない。書の歴史的総体、総力、つまり<筆触>の総力、全力を駆使して、「世界」を描出しようと試みているのだ」と。

さらに曰く「副島の書が、近代、現代、戦後の書のステージ-段階-を胚胎し、字画を分裂、微分した果てに<書線>や<描出線>のステージを隠しているにもかかわらず、安定した書として認識されるのは、それらを<筆触>が統合しているからだ。<筆触>とは書の別名に他ならない。強靱な<筆触>=強靱な書性によってまぎれもなく書として統御されているのだ。-略- 副島は古文、篆隷楷行草という東アジア漢字文化圏の書が担ってきた歴史的なすべての手法を結集して、近代、現代の書のステージをいっきに描き出してしまっている。過去、現在、未来、そのすべての書の姿が予言的に凝縮されているのだ」と。

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副島種臣の書「神非守人、人実守神」

―山頭火の一句― 「三八九-さんぱく-日記」より-24-
1月20日、うららか、今日の昨日を考へる、微苦笑する外はない。

すまなかつた、寥平さんにも、彼女にも、私自身にも、−しかし、脱線したのぢやないそれだけまた心苦しい。

苦味生さんから来信、あたたかい、あたたかすぎる、さつそく返信、そして寝る、悪夢はくるなよ。

自分が見え坊だつたことに気付いて、また微苦笑する外なかつた、といふのは、私は先頃より頭部から顔面へかけて痒いものが出来て困つてゐる、それへデイリユウ膏を塗布するのだが、見えない部分よりも見える部分−自分からも他人からも−へ兎角たびたび塗布する。‥

※表題句の外、2句を記す

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