酔うほどは買へない酒をすするのか

Dancecafe081226156

−表象の森− インド舞踊、って何だ!

Odissi Danceの茶谷祐三子も加わったインド舞踊の会があるというので、連合い殿が土曜出勤のゆえ子連れながら京都まで観に行ってきた。

会場は南禅寺近くの京都市国際交流会館内のイベントホール、200席余りの小ホールだ。その名称からして小なりといえどさぞ設備の整った劇場だろうと思って出かけたのだが、予想は見事に裏切られた。音響も照明もまるでなってない、半世紀ほども昔へタイムスリップしたかと思うくらいお粗末なものだった。音はボリュームを上げるとただ煩いだけのものとなるし、ホリゾントはLow HoriこそあるもののUpper Horiがないから、地明りのボーダーやサスからのハレーションがひどくて、いわば空と大地の、空間が分かたれない。踊り手たちにとって折角の晴れの舞台も、これでは辛い環境となる。

さて本題の踊りについてだが、出演は4団体、オディッシィ・ダンス=東インド舞踊の野中ユキと茶谷祐三子、パラタナティアムといわれる南インド舞踊の福田麻紀とマユリ・ユキコ。演目は休憩をはさんで二部に分かれ、前半は茶谷祐三子と福田麻紀、後半は野中ユキとマユリ・ユキコ、それぞれオディッシィとパラタナティアムの組合せとなっている。

子連れのこととて、一部を観終えたところで退散しようかとも思ったが、オディッシィ・ダンスに関しては茶谷祐三子以外のものをまだ観たことがないので、二部の野中ユキのソロを観届けて席を立った。

先-11月-の、カルラの南インド舞踊もそうだったが、茶谷が踊るOdissi Danceの世界と、今日の福田麻紀、野中ユキらの踊り、パラタナティアムとオディッシィの違いはあれど、彼女らの世界とは同じインド舞踊とはいいつつズレがある、位相が異なるといわざるをえない。同根の筈の野中ユキのオディッシィ・ソロまで強いるように観たのは、結果としてその確認のためだったということになる。

彼女らの踊りは、技術的にはまずまず達者なものだが、どこまでも単なる民族舞踊でしかない。異邦の世界を憧憬する心はだれにでもあるものだが、その発想かならずしも無垢なものなどではなく、ずいぶんと俗な部分に浸食されているものだということを知らず、あくがれはそのまま媚びやへつらいに堕しかねず、きわどいところだが俗臭が匂い立つ、と私にはそう映った。

茶谷自身の語るところでは、8年ほどに及ぶ彼女のインド滞在のあいだ、Odissi Danceの習得に専心したのは2.3年、以後はもっぱらラジニーシの瞑想に私淑、明け暮れていたと聞く。よってか彼女の踊りにはどこかまだ生硬さがのこるものの、心の軸がある、これもまたなかなかにきわどいところのものではあるが、踊ること自体、超越的な存在-神-への捧げものという、そんな信仰にも似たものがあるようにみえる。

Photo

写真はこの日の会のチラシだが、この手の企画、どうしてこんなに趣味がワルイのか

―山頭火の一句― 「三八九-さんぱく-日記」より-26-
1月22日、雨、憂鬱な平静。

稀也さんから突然、岡山へ転任するといふ通知があつたので、逓信局に元、馬の二君を訪ねて、送別句会の打合をする。

途上で少しばかり飲んだ、最初の酒、そして焼酎、最後にまた酒! 何といつても酒がうまい、酔心地がよい、焼酎はうまくない、うまくない焼酎を飲むのは経済的だからだ、酔ひたいからだ、同じ貨幣で、酒はうまいけれど焼酎は酔へるからだ、飲むことが味ふことであるのは理想だ、飲むうちに味ふほどに酔うてくるなら申分ないけれど、それは私の現状が許さない、だから、好きでもない焼酎を飲む、眼をつぶつて、息もしないやうにして、ぐつと呷るのである、みじめだとは自分でも知つてゐる、此辺の消息は酒飲みの酒好きでないと解らない、酒を飲むのに目的意識があつては嘘だが、目的意識がなくならないから焼酎を飲むのである。‥

※表題句の外、3句を記す

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