袋貼り貼り若さを逃がす

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−表象の森− 日本語とはどういう言語か -01-

このところ石川九楊の書論三昧の身であると綴ったばかりだが、ぼつぼつとMemoっていきたい。
これまで読んだところで最も強く印象に残るのは、出版当時サントリー学芸賞の思想歴史部門を受賞したという「書の終焉-近代書史論」-90年同朋舎刊-だが、すでに絶版、中古書でも稀少でずいぶんと高値がついており、図書館で借りて読むしかなく、あらためてMemoの機会を得たいと思う。

それでさしあたりは2006年中央公論社刊の「日本語とはどういう言語か」から。
本書の目次は、以下のとおり二部構成となっている

 「文-かきことば-篇」
  序 章 日本語の輪郭
  日本語とはどういう言語か
  日本語の書法
   第1節 日本語の書字方向
   第2節 日本語の文字
 「言-はなしことば-篇」
  第1講 日本語とはなにか
  第2講 文字とはなにか
  第3講 日本文化とはなにか
  第4講 日本文化論再考
  第5講 日本語のかたち
  第6講 声と筆蝕
  第7講 文字と文明

「文-かきことば-篇」は、雑誌「ユリイカ」など各誌に書き下ろした文章を集めたもので、後半の「言-はなしことば-篇」は見出しに「講」とあるように、京都精華大での講義録が素になっているという。

先ずは「序章−日本語の輪郭」より適宜抜粋、但し文の意味連絡上、一部改変している箇所がある。

極東の孤なりの島嶼には日本語という名で括られる言語がある。
東北、関東、北陸、関西、中四国、九州、沖縄、さらにはより小さな地方語を統合してなる日本語は、単なる一部族言語にとどまらない東アジアの一地方国家語の性質を朝鮮語や越南語と同様に有している。

・言葉は人間の表出と表現の中心に位置する
言-はなしことば-は、声の強弱や高低、身ぶり手ぶりという肉体を必ずまとい、文-かきことば-もまた、書字の強弱や大小、疎密などの肉体をまとう。肉体なくして人間の精神もないように、声や書字-筆蝕-なくして言葉の精神も存在しない。したがって言葉の表出や表現は、言-はなしことば-の周辺の話芸や音楽、舞踊、塑像、スポーツ、また文-かきことば-の周辺の文学や書、絵画、デザイン、彫刻、建築などを引き連れて存在している。

・言葉は言-はなしことば-と文-かきことば-の統合である
言-はなしことば-あっても文-かきことば-のない言語はむろんありうる。それどころか、文字の成立が、わずか数千年前の出来事にすぎぬ以上、人類史のほとんどは言-はなしことば-のみの時代であった。とは言え、文-かきことば-が成立して以降は、文-かきことば-と言-はなしことば-の語彙と文体の相互浸透や、文字が発音を規定する綴り字発音等、むしろ文-かきことば-が言-はなしことば-を根底において支えるという逆転が生じている。したがって、言葉は言-はなしことば-のみによって考察されるものではなく、文-かきことば-の成立以降は、文-かきことば-と言-はなしことば-の統合として考察されるべきである。
われわれは日常において、「あけましておめでとう」と話しても、「謹賀新年」と話しかけることはないように、いまだ文-かきことば-と言-はなしことば-はそれぞれ別々の道を歩んでいるかのように、そのあいだには乖離がある。この乖離傾向は、文-かきことば-においてさえ、漢字文の極と平仮名文の極を有する二重複線言語=日本語においてとりわけ著しいと思われる。
さらにつけ加えれば、言-はなしことば-は市民社会に、文-かきことば-は国家に喩えることができる。

・声が言葉に内在的であると同様に、文字もまた言葉に内在的である
文-かきことば-おける文字−正確には書字-筆蝕-−は、言-はなしことば-における声に相当する言葉の肉体である。声が言葉に内在的であるなら、文字=書字もまた言葉に内在的である。
言葉の表出や表現において、言-はなしことば-における声の強弱や音の高低の変相によって、その意味と価値の違いが生じるように、文-かきことば-においても、その文字の書きぶり-筆蝕-の変相によって、同様に意味と価値の違いが生じる。
「ありがとう」という言葉が、その声や音あるいは書きぶりの変相によって、「ありがたくはない」という逆の意味を孕むうるように、「迷惑」という言葉も「感謝」という逆の意味を内に孕みうるものである。
言葉とは、辞書に登載されているような意義とは別に、声や書字の肉体如何によっては逆の意味を盛るところに、その本質が隠れている。この事実に気づかなかったために、音韻と語順と意義の文法言語学が、日本語のローマ字書き、仮名書き論等、不毛な言語論と政策を生んできたのである。

・言葉は語彙と文体からなる
初等教育としてはともかく、言語を考察する上で文法や語順や意義は、さしたる重要な位置を占めない。言葉は、対象を区切り、切りとる語彙と、それらを相互につなげる思想とも言うべき文体とからなる。
ここで言う文体とは、言葉の表出と表現の始発-言葉を引き出す力-であると同時に、その極点-言葉の存在を保証する力-でもあるような、換言すれば、言葉を生むと同時に言葉を支える力の別称である。
たとえば、「雨が降る」という言葉は、「雨」・「降る」という語彙と、この発語に至る以前の始発の漠然とした蠢き、喩えれば糸屑のごとき揺らぎであると同時に、生れたこの文の艶や輝きでもある文体から成ると捉える場に、言葉はその姿を現わす。
発語者以前に語彙と文体は歴史的、社会的に蓄積されてある。発語者は、このすでにある語彙と文体に倣い、これを借りて発語する以外にないが、そこにはいくぶんかの微妙なる異和が生じる。その異和こそが歴史を動かす原動力である。異和はいくぶん語彙や文体に投影され、そこに生れた新たな語彙と文体が、歴史的、社会的に受けとめられるという過程を経て、言葉は展開していく。
自然とともにあり、自然自体である動物は、一声発すればすべてを言い尽くすことができる「完全なる言語」つまり言葉以前をもっている。自然から離脱した人間の言葉は、百万語を費やしても、ついに自然や社会を捉えることのできない不完全言語である。不完全な人間の言葉は、言い尽くせぬゆえに新たな語彙と文体とを永続的に生みつづける。詩や歌に不可避の韻律は、言葉の「言い尽くしえぬ」本質に発する繰り返しと反復を基礎に成立している。

―山頭火の一句― 「三八九-さんぱく-日記」より-35-
1月31日

やっぱり独りがよい。

※表題句の外、2句を記す

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