ボタ山の間から昇る日だ

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−温故一葉− 何人かの友人へ

同封チラシは、小生デザインのものです。
私が斯様な企画に若干の関わりがあるというのも些か意外なことでしょうが、ご案内言上致します。

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松浦ゆみは、往年のオールデイーズポツプス出身の歌手で、歌唱力には定評のあるところ。
彼女は以前より市内港区に在住していることもあり、私が‘88年より‘00年までの12年、港区選出の市会議員奥野正美君-若かりし頃の演劇仲間-の事務所活動に携わるようになってから、いろんなイベント絡みで関わり合うようになったもの。今では結構長い付合いとなりました。
下積みの長かった苦労人も、桂三枝の作詞「もう一度」の曲を得てメジャーデビューとなったのがちょうど10年前、この年のデビュー公演から以後、この手の世界とは門外漢の私ながら、ディナーショーなどさまざまに、企画制作や演出面をサポートしてきたといった間柄です。

この2月、彼女は積年の持病であった心臓の手術をしました。このまま放置すれば、「数年で死は免れ得まい」との医師の宣告を受けての、往きて戻りえぬかも知れぬ、覚悟の手術だったようです。
この企画、その手術前からすでに立ち上がっていたものですから、きっと彼女は、無事生還しなければまさに死人に口無し、「ご免なさい、みなさんサヨナラ」の心境だったのでしょう。
先日、久しぶりに会った彼女は、「歩くとまだ胸の傷に響くの」と言いつつも、開き直ったような一皮剥けた明るい表情を見せていたのが強く印象に残ったものです。

もう日時も迫っておりますが、偶さか時間も合って金銭にも余裕あって、ひとつ参じてやろう観てやろうかと思し召しの節は、私方までご連絡を。
  2010年3月.春分玄鳥至    林田鉄 拝


−表象の森− 一休宗純の書
石川九楊編「書の宇宙-№16-知識の書・鎌倉仏教者」二玄社刊より

一休宗純「霊山徹翁和尚、示栄衒徒法語」

この書は、一休宗純が宗峰妙超の弟子・徹翁義亨の戒語を記し、後に「工夫‥」以下の詩-偈頌-を付したもの。
狂雲子とは一休自らが名告つた号だが、まさしく<狂>の名にふさわしい書である。
楷・行・草、単体・連綿、直・曲、大・小、疎・密、肥・痩、潤・渇、筆毫の開・閉、さまざまな要素がこきまぜられた筆触曼荼羅の趣き。

起筆を明らかにしない草率な書きぶりには、中峰明本、宗峰妙超とのつながりが感じられ、かすれの多用は、張即之、蘭渓道隆の匂いがある。近世日本の禅僧の、文字の骨格に頓着しない「書ならざる書」といってもいい無法の書-墨跡-のはしりではあるが、諧謔があり、余裕があり、その気宇は壮大である。
使用印の輪郭が格別に太く、元代の九畳篆風である。

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凡参禅学道之輩。須日用清浄。不可日用不浄。所謂日用清浄者。究明一則因縁。到無理會/田地。晝夜工夫不怠。時々裁断根源。佛魔難窺處。分明坐断。往々埋名蔵迹。山林樹下。擧/楊一則因縁。時無雑純一矣。謂之日用清浄人也。然而稱吾善知識。撃杖拂。集衆説法。魔魅/人家男女。心好名利。招學者於室中。道悟玄旨。使參者。相似模様。閑言語。使教/者。片个情也。這般輩非人也。寔日用不浄者也。以佛法爲度世之謀。是世上榮衒之徒也。凡有身/無不着。有口無不食。若知此理。豈衒於世哉。豈諛於官家哉。如是之徒。三生六十劫。/入餓鬼。入畜生。可無出期。或生人間。受癩病之苦。不聞佛法名字。可懼々々。/右霊山徹翁和尚。示榮衒徒法語。一休子宗順謹題。后云工夫不是涅槃堂。名利/耀前心念忙。信道人間食籍定。羊糜一椀橘皮湯。

一休宗純「初祖号」

近世に入ると、茶席に禅僧のいわゆる一行書を掛ける習慣が日本に定着するが、その走りともいうべき書。
字画のはっきりしない荒々しいかすれから、竹筆-竹を割き、叩き、繊維状にした筆毫の筆-を用いて書いたものと思われる。

この書の最大の見所は<達>。<達>の前半部は、おそらく逆字-裏字-で書かれている。ここに一休の逆転の意志を読取ることは許されよう。書き慣れない書法のため、意識的に書かざるを得ず、速度は落ち、墨がくっきりと濃く付着している。<辶>部の最終筆が揺れながら、しかも筆毫を開いたまま右上に押し上げ放たれている筆触は、狂雲子の名通りの、ま狂中の狂。右上から右下へ向けてすばりと斬り込み、筆毫を開ききったままはらう<堤>の最終画も無法。

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初祖菩提達磨大師


―山頭火の一句― 行乞記再び -12-
1月3日、晴曇さだめなし、緑平居。

終日閑談、酒あり句あり、ラヂオもありて申分なし。
香春岳は見飽かぬ山だ、特殊なものを持つてゐる、山容にも山色にも、また仏説にも。

※表題句の外、1句を記す

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