波音の県界を跨ぐ

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−表象の森− 無限微動筆蝕

石川九楊編「書の宇宙 -21-さまざまな到達・清代諸家?」より

リズム法の解体による筆蝕の無限微動化は、筆蝕の強靱化、多様化のみならず、字形の多様化をもたらした。

鄭燮-テイショウ-の「懐素自叙帖」に至っては、隷書、楷書、行書をモザイク状に敷き詰めたような、信じがたい不思議な作が生まれている。明末の傅山-フザン-に、行書、連綿行書、金文、草書体風の金文をこきまぜた七帖十二屏の作品があるが、この場合には一幅が一体で書かれている。なぜなら、いまだ折法が完全に相対化されず、筆蝕も無限微動化が実現していなかったがために、書字の上での「はずみ」-運筆上自然に生まれてしまう字画の長さや形状-が避けられず、一幅の内に複数の書体を交ぜて書くことは不可能であったからである。

ところが、新たに誕生した無限微動段階の筆蝕は、いついかなる時でも、いかなる方向へでも、いかなる力でも進むことを可能にした−それは筆蝕が進みながら止まっており、止まりながら進んでいることを意味する−。このため極痩の草書体と極太の隷書体や楷書体とが違和感なく一つの紙面に併存し一つの世界を構成する、鄭燮の「懐素自叙帖」も生まれたのである。

・鄭燮-テイショウ-「懐素自叙帖」部分-1764年-

一見したところ、玩具箱をひっくりかえしたような、懐素の自叙帖を書いた作品。折法が相対化され、書法が相対化された清朝でなければ表現されえない書。清朝初期を代表する書であり、無限微動筆蝕が複雑多岐にわたる表現を可能にしたことを証す書である。ここには、日本の戦後前衛書も含めた、現代的表現の芽生えがある。極痩の草書体部は筆尖を垂直に突き立てた直筆で書かれ、石を切り落とすような左右のハライ部では、筆尖が角度筆で書かれている。書はついに、現代の我々を無条件でわくわくさせるまでの表現法を手に入れたのである。

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/‥其不羈。引以遊處。兼好事‥/
/‥草稿之作。起於漢代‥/
/‥壇其美。義獻茲降。虞‥/
/‥長吏雖姿性顛逸。超絶巓/

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―山頭火の一句― 行乞記再び -25-
1月18日、晴、行程4里、佐賀県浜崎町、栄屋

霜、あたたかい日だつた、9時から11時まで深江行乞、それから、ところどころ行乞しつつ、ぶらぶら歩く、やうやく肥前に入つた、宿についたのは5時前。

福岡佐賀の県界を越えた時は多少の感慨があつた、そこには波が寄せてゐた、山から水が流れ落ちてゐた、自然そのものに変りはないが、人心には思ひめぐらすものがある。

筑前の海岸は松原つづきだ、今日も松原のうつくしさを味はった、文字通りの白砂青松だ。
左は山、右は海、その一筋道を旅人は行く、動き易い心を恥ぢる。

松の切株に腰をかけて一服やつてゐると、女のボテフリがきて「お魚はいりませんか」深切か皮肉か、とにかく旅中の一興だ。-略-

いつぞや途上で話し合つた若い大黒さんと同宿になつた、世の中は広いやうでも狭い、またどこかで出くわすことだらう、彼には愛すべきものが残つてゐる、彼は浪花節屋なのだ、同宿者の勧めに応じて一席どなつた、芸題はジゴマのお清!

一年ぶりに頭を剃つてさつぱりした、坊主にはやはり坊主頭がよい、床屋のおかみさんが、ほんたうに久しぶりに頭を剃りました、あなたの頭は剃りよいといってくれた。

落つればおなじ谷川の水、水の流れるままに流れたまへ、かしこ。

※表題句の外、記載なし

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Photo/道中の、鳴き砂で名高い姉子浜-現糸島市二丈鹿家-

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