ふりかへる領巾振山はしぐれてゐる

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―日々余話― 古稀の人

次兄の誕生日は、たしか4月3日だった、満70歳、めでたく古稀を迎えたわけだ。

その細君は、私と同い年-今年66歳-だが、10数年前の交通事故が遠因となっていると目されるのだが、7.8年前から高次脳機能障害がみられるようになり、症状は歳月とともにどんどん進行し、すでに要介護度5の重症となって3年ほどになろうとしている。

家にはまだ次男と長女が同居しており、今なお小さな鉄工所を自営している次兄の留守のあいだ、彼らがディサービスに通う母親の世話をしているといった暮らしぶりなのだが、そうはいかなくなるのももう時間の問題で、その近づく跫音はどんどん大きくなってきているにちがいない。

そんな重荷を抱えてはいるのだが、生来楽天家気質なのか、いやそれも少しはあろうけれど、きっと次男ゆえの分を弁えるという親父からのかなり徹底した教育の影響が大きいのだろう、愚痴らしい愚痴もこぼさず穏やかなマイペースぶりで日々を過ごしているように、周囲には映る。

分を弁えるとは即ちすぐれて気配りの人、ということだ。
もうずっと彼は、年に1度か2度、甥・姪たちを一堂に集めては呑み会を主催し、かれこれ15.6年は続けている。主催というからにはもちろん万事彼の振舞いなのだが、ご相伴の相手、甥・姪といってもその筆頭は御年50歳になるという面々であるから、これはもう奇特というしかない。だが、振舞うほうの彼を奇特の人としても、振舞いを受ける甥・姪たち、こんなにいい年になってまでそんな功徳を受けるに値するかと自問自答もせぬのか、と傍目には思われるのだが‥。

そんな会も、実はずっと昔にその原形があった。身寄りといえば祖母一人という、そんな淋しい境遇で育った親父の、なればこそまるでその反動のように、遠い縁戚までも取り込むがごとき大家族主義で生涯をおくった、そんな生きざまのなかに、ひとつのモデルがあり、それを引きずっているといえばいえそうなのだ。

さて、そんな呑み会に、今夜、初めて私は顔を出すことにした。
そう決めて、なんだか、このところずっと書史論にばかり耽ってきた自分だが、これは一つの機会かもしれぬ、じかに書いてみよう、白い半紙にぶつけてみようと思い立った。
書の孰に通ったのは、小6から中1の、ほぼ1年間、いい先生だと思っていたが、他に関心がひろがりすぎて続かなかった。たった二文字の課題、「洗心」と書いたのだけがずっと心に残っている。

手本もない、書歴もない、ズブの素人の勝手流だが、気力だけは相応に費やした。

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―山頭火の一句― 行乞記再び -34-
1月26日、曇、雨、晴、行程6里、相地、幡夫屋

折々しぐれるけれど、早く立つて唐津へ急ぐ、うれしいのだ、留置郵便を受けとるのだから、―しかも受け取ると、気が沈んでくる、―その憂鬱を抑へて行乞する、最初は殆ど所得がなかつたが、だんだんよくなつた。

徳須恵といふ地名は意味がありさうだ、ここの相地-Ohchi-もおもしろい。

麦が伸びて雲雀が歌つてゐる、もう春だ。

大きな鰯が50尾60尾で、たつた10銭とは!

  • 略- この地は幡随院長兵衛の誕生地だ、新しく分骨も祀つて、堂々たる記念碑が建ててある、後裔塚本家は酒造業を営んでゐる、酒銘も長兵衛とか権兵衛とかいふ‥-略-

第28番の札所常安寺は予期を裏切つて詰らない禅寺だつた-お寺の旁々は深切だつたけれど-、門前まで納屋がせり込んでゐて、炭坑寺といはうか。

どこを歩いても人間が多い、子供が多過ぎる。朝早いのは鶏と子供だ。

※表題句の外、3句を記す

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Photo/昭和5年に建立された幡随院長兵衛の記念碑

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Photo/その下流松浦川に合流する徳須恵川

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