はるばるたづね来て岩鼻一人


<エコログのなかのある対話から−その4>


四方館
さあ、やるぞ−という発語のもとで、
なにかふっきれたものが確かにあるとしたら、
こんなに喜ばしいことはないと思う。
あなたはきっと自分自身の力で、この病いを克服できるはずだと、信じます。
やがて、求めるべき愛も、
その愛の形が変ってくるものと思います。

(2004/11/29 05:39)


四方館さん、ありがとうございます。
そうです、エコログを書いていて、私の「本領発揮」はどの分野でもよかったが、とにかく学問だった、とわかったのです。自分が一番目指したいもの、これが自分の道というものがわかった、そうすれば、それができなかった理由もはっきりしているのだし、自分に納得がいくんですね。長年、自分は何が向いているのだ ろう、何ができるのだろう、・・・そして、何もかも、挫折し尽した、と思っていた人生でしたから。

その意味で、ふっきれたのです。「喜ばしいこと」と言っていただいて、ありがとうございます。病気には負けてばかりですが‥‥。
そうですね、私が今体験している愛も、その愛の形が変わってくるときがくるんでしょうか。いつまでも、同じではありえませんものね。将来はみえませんが、歩んでいきたいとは思っています。

私の今現在の夢のひとつはですねー、四方館さんに大阪などでのいい演劇の上演情報をいただいて、演劇を観に行くことですね。

働くのは、その準備に向けて前進したいという意味で、何年後になってもかまいません。30代後半ぐらいになるのじゃないでしょうか、多分、実現するとしても。
(2004/11/29 08:34)

四方館
「さあ、やるぞ」から「天使」へ、
そしてこの「ごめんなさい」へとつながる変容は、
どうやら、矛盾する激しい心の揺れ、ではなく、
昂揚した気分から、ぐっと沈潜していく内面の変化のようですね。
未来に向けての「ごめんなさい」って、とてもよく判る気がする。
過去の、これまでのこと一切を、今の自分と云うものに流れ込んでいるすべてのことを、<限られた>自分の像として捉えこんで見ている。だからこそ未来への<可能な>自分がはっきりとしてくる。

そこで「ごめんなさい」なんだね。
(2004/12/02 10:23)


四方館さんからは、どんな短いコメントでも、いただきたいと思っていました。
このエコログばかりは、他のエコログよりさらにはるかに、「急に判ってきた事情の多さ」を説明しないと、なぜ私が「心配」してもし切れる強さのない人間として謝っているのか、意味のわからないエコログなのです。けれどもそれがエコ ログ上で説明できない理由ももちろんおお判りでしょう。明かしたくない人のプライバシーはひとつも明かしたくない、等など、それは、当たり前のことですよね。

けれども、四方館さんのおっしゃる通り、自分というものに流れ込んでいるすべてのことを、「限られた」自分の像として捉えこんで見ている、それは、その通りですね。そうです、病気の上に「障害」として固定化した「限界」が私についてきて、また関係というのは相手あってのもので、相手にも背負っているものがあ るのですから、未来への「可能な」自分がはっきりしている。

そうです。でも、それ=私の側の障害をも、乗り越えたいという気持ちすら、起こってきたほどの心の体験なのです。けれどもやはり、相手あってこその関係。相手のことでつぶれているようでは、未来で乗り越える時がくるかもしれないど ころか、・・・私も、今、どうするかについて、考えないでもないのです。未来、までもいかない、現在、ここしばらく、でさえ、私はそんな心の関係を保てる人間なのか? 好き、愛しているばかりでは、判断してはならないことではないでしょうか。

とにかく、結婚後ずっと、めまぐるしい変化の日々だったので、エコログがめまぐるしいものになるのも致し方ないのです。学問の一般の方への紹介のお話は、いつでもできますから。
(2004/12/02 11:13)


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