青葉の奥へなほ径があつて墓

 「In Nakahara Yoshirou Koten」

<世間虚仮>


回復運転という哀しくもいかがわしい用語>

回復運転」という言葉が昨日あたりからマスコミで躍っている。
本来なら疾病などの回復や、原状回復などと用い、言祝ぐべき現象を表すのに、
ここでは正常ダイヤに戻すこと、そのために制限時速いっぱいの危険を顧みず運転せよ、
ということらしい。
こんな哀しくもいかがわしい残酷な用語を、人はかくも平気で造りだし、ノルマの如く課すのだろうか。
こんな言葉を造り出し、マニュアルとして社内を跋扈する、そんな組織っていったい何者だ。
どうやら、ひとりJR西日本ばかりではないようだ。
鉄道ばかりではない、飛行機も。
これが人間の組織か、これが人間の社会か、これが我々の生きる日本という国か。
こんな言葉を造語してしまう社会構造こそ重い病根であり、
現代に生きる我々の身体に固着してやまぬ瘡蓋だ。


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いよいよ明日の夜です。


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  「Lesson Photo in Asoka」

<身体・表象> −5


<まなざし−視線> −P・ヴァレリーの断章より−


視線。
視線が出会うとき、奇妙な関係が生まれる。
だれだって自分の視線をずっと追ってくる他人の視線から目を離せないと、自由にものが考えられなくなるだろう。
視線が互いにからみあうとき、ふたりはもはや完全に<ふたり>でいることはできなくなり、
<ひとり>のままでいることもむずかしくなる。


<交じりあう>視線について。
この交じりあいは、ごく短かいあいだ、ふたつの<運命>、ふたつのものの見方のあいだで、
入れ替え、置き換え、移し替えを実現する。
その結果、ある種の相互規制がそこに生じる。
あなたはわたしのイメージ、風貌を帯びてきて、わたしはあなたの風貌を帯びてくる。
あなたは<わたし>ではない、というのもあなたはわたしを見ているからだし、わたしは自分が見えないから。
わたしに欠けているのは、この、あなたの見ているわたしだ。
そしてあなたの方に欠けているのは、わたしが見ているあなただ。


わたしがおなたを見るのは、あなたにならないためだ。
わたしは<あなた>じゃないから。


この種の分析は、自己と自己自身との関係の分析にも応用することができるだろう。


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