日ざかりのお地蔵さまの顔がにこにこ


          photo-恐山にて


<世間虚仮>


<我が国は、仏教の国か、神道の国か?>


頑なな小泉首相靖国参拝の関連発言をめぐって、靖国問題がなお喧しい。
首相のこれみよがしの柳に風、馬耳東風の態度も、ここまでくるとただのガキ同然に見えてくる。
彼の人を喰ったような答弁は、郵政民営化問題でもあからさまに見られるが‥‥。


あまりに靖国問題がケンケンガクガクと論じられているので、
ちょっと待てとばかり、表題のごとく、
果たして我が国は、そもそも仏教国なのか、それとも神道国なのか、を考えてみたい。


成程、確かに、縄文・弥生の時代から、我が国には森羅万象に神は宿りたまうという自然信仰はあった。
しかし、これはアニミズム、いわゆる呪術的な原始信仰であり、地球上の何処にでもあまねくあったものであり、
今日の世界宗教へと明確に繋がる系譜のものではあるまい。
では、小規模な部族的国家が群立した段階、
九州説と大和説でいまだに決着を見ない卑弥呼の時代はどうだったのだろうか。
すでに農耕が一定の大きな規模で定着しなければ、小なりといえども部族国家的なものは成り立たないということを考えると、巫女の祀りのなかに、本来狩猟的文化段階の呪術儀礼を主体としたもののなかに、農耕儀礼的な要素も入ってきたであろうことは想像に難くない。しかし所詮は呪術的信仰にとどまっていたものとみて差し支えないのではないか。
さて、仏教伝来は蘇我馬子への538年と、公式な伝来といわれる552年の両説を、私の場合でいえば中学の歴史で習った。現在はどう教えているのか知らないが‥‥。
聖徳太子は、仏教をもって鎮護国家思想を唱え、十七条憲法を作ったのだ。
太子は隋に倣い律令制国家への展望を開こうとした、その礎に仏の教えをもって為そうとしたのだ。
大和の豪族たちの中心としてあった大王たちの係累がさまざまな争闘を経て、672年の壬申の乱を制した大海人皇子が大王となり、天皇の称号を初めて用い、死後天武と諡名された、というのが今や古代史の通説である。
古事記が成ったのが712年、日本書紀は720年、ここではじめて国生み、国づくりの神話が明瞭な形を成し、後に書紀のほうは史書として見做されてもきた。
しかし、神話の世界は、所詮口承伝説である。そのなかにあらわれる祭祀にまつわる記述などが、そのまま神道の確立を意味するものではあるまい。内実は呪術的自然信仰の延長であり未開の文明そのものとみるべきだろう。


些か、話を端折るが、一度は、この国における<神仏習合>の歴史をきちんと読んでみるがいい。
この日本に、われわれの心性に、古来より脈々と流れているのは、仏教でもなく、神道でもなく、その意味では独特の、<神仏習合>の習俗であり伝統文化なのだ、ということが少しは理解できるだろう。


およそ、我々日本人は、祖先を敬い、祖先を祀ることにおいて、格別手厚いものがあるなどとのたまうが、そんな心性は歴史的存在としての人類普遍のものだろうし、
また、罪を憎んで人を憎まず、どんな罪人であろうと人はみなその死後、罪は消え手厚く葬られるなどとのたまうのは、神仏習合においてもより仏教の教えに寄り添ったものだろう。


また視点を変えてものいえば、荒ぶる御魂を祭るとは、怨霊としての祟りを怖れ、魂鎮めのため神祀りするものであり、英霊として靖国へ祀られるということは、怨霊としての祟りを怖れての行為だという意味を潜在させているともいえる。
その意味からいえば、母国のためにと潔く戦地に散った霊たちは、二重に貶められているということにもなりかねないのだが。


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