みんなたつしやでかぼちやのはなも

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   「浜辺に遊ぶ−宮古島にて」


<行き交う人々−ひと曼荼羅>


<記憶の中の−遥洋子>


東京や関東方面での知名度がどれほどのものかわからないが、
遥洋子といえば、関西の人ならまず知らない人はいないくらいの、有名タレントなのだろう。
1986年、上岡龍太郎とのコンビ司会に抜擢されて、読売テレビの「ときめきタイムリー」で本格デビュー。その後、関西のテレビやラジオではかなりの露出で知名度を上げ、人気も浸透していたが、
上岡龍太郎の突然の引退宣言頃からか、一時低迷していて、どうしているのだろうと思っていたら、
著書「東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ」がベストセラーになって、近頃は東京・関東へも進出。
現在のところレギュラー番組こそ持たないが準レギュラー的なものは結構あるようだし、フェミニストとして或は歯に衣着せぬタレントとして講演やイベントの司会に重宝され、なんとか全国版になつてきているらしい。


私は以前、「関西芸術アカデミー」という劇団及び養成機関で依頼を受け「身体表現」の講師をしていた時期がある。
現理事長・筒井庸助の先代(名前を失念)が、戦後まもなく、アカデミー児童劇団を立上げ、児童タレントの養成をしてきた関西の老舗なのだが、ここが昼間部と称して、高校生以上の大人を対象とした俳優・タレント養成を手がけ始めた頃に、身体訓練の講師として私に白羽の矢が立てられたのだった。
おそらくは、昼間部責任者の筒井庸助君と私との媒介役となったのは共通の照明スタッフ・新田三郎の存在だったのだろうが、とにかく、74年4月から81年3月まで丸7年間、週1回2時間の講師として天王寺区空清町にあるアカデミー通いをしていた。
記憶によれば、昼間部3期生から9期生まで、毎年30名から40名程度の若者たちにレッスンしたことになるが、この場所が縁で後々も交わり、私にとって記憶に残る人々となつた者たちは他にも何人かは居るが、それらの人々にはまた追々と登場してもらうとして‥‥。


さて、遥洋子、彼女の実名は避け置くとして、彼女がこの昼間部の何期生だったかすでに記憶は覚束ないが、多分7期か8期にあたるのではないか。
利発で機知にとんだ器量よしの娘はさすがに同期生のなかで目立った存在ではあった。あのTV画面を通しての舌鋒鋭いトークのなかに垣間見られる彼女なりの本物志向が、当時の姿勢にもっと素直な形で表れていたし、授業への熱心さにおいても眼の色が違っていた。
だが、天は二物を与えずの喩え、画面を通して見る彼女の姿からもある程度予測はつくだろうけれど、容貌に不足はないが哀しいかな容姿端麗とはお世辞にもいえなかった。私のレッスンではほとんどみんなレオタードやタイツ姿で臨むのだが、彼女のその姿は生気に溢れるような容貌の魅力と、できれば剥き出しに曝け出されるのを拒みたいというボディラインへの自意識過剰が、少しくアンバランスに交錯させたままレッスンに取り組んでいた。
それがあってか、卒業後の彼女は、私のレッスンにも強く惹かれてはいたらしいが、日舞や殺陣のほうを選んで続けた、と後になって聞かされたこともあったっけ。


そのアカデミー時代から何年も経ていたが、突然、彼女が私の稽古場での合宿に参加したいといってきて、どういう風の吹きようかと驚きながら迎えたことがある。もちろん、まだ鳴かず飛ばずのTVデビュー前のことだった。終日、みんなでたっぷりと汗を流して、にぎやかに一緒に炊事をして遅い夕食をとって床に就くことになるのだが、ご他聞にもれずその夜も遅くまでなにかと話し込んだはずだ。
あまり確かな記憶ではないが、どうやら自分の進路に迷いを生じていたようだった。所属事務所に関して、別の誘いもあるようで、そのことについても悩んでいたのだろう。だが、他の者も同席している場だから委しい事を語る訳にもいかないし、聞き出すのもままならない。
翌朝、私は太極拳のサークルに指導のため別の教室へ行かねばならなかったのだが、なかなか踏ん切りのつかないこの悩める子羊ものこのこ私についてきた。
一時間半ばかりの実習で軽い汗をかいたあと、やっと二人きりになって話を聞いた。今はもう何を聞いて何を語ったのか細部はまったく忘れ去っている。なかなか陽の目をみないタレント予備軍として何年も経てきている。そのなかでは恩やら義理やらしがらみもいっぱい付いてまわっていたのだろう。そんな折に新しい人脈からか別な事務所への誘い、はて行くべきか行かざるべきか、であったのだろう。
私なぞに言い得ることはたった一つしかない。「いま降ってわいたような出来事がそんなに自分を捕えて悩ますのなら、それは大きな機会なんだろうし、ワンチャンスしかないと思え。仮にそれを選び取ることがこれまでの関係者に義理を欠いたり裏切る行為となるとしても、裏切りそれ自体を恐れるな。そりゃ人間、誰だってできることなら人を裏切ることはしたくはないが、そうしない訳にはいかない時もどうしてもあるもんだ。」とそんなことを言ったかと思う。


さて、その後は、夜遅くに彼女から電話が何回かかかってきたりはした。
もうあの問題に触れるようなことはなかったから、裏切りを恐れず、所属事務所を移ったのだろう。
いつだったか深夜の長電話で、男と女あいだの話も、なにやら堂々めぐりのように喋っていたこともあったっけ。
それからしばらくすると、俄然、TVの画面に登場するようになった。
「遥洋子」、そういえば彼女の芸名をはじめて知ったのはTVを通してで、それまでついぞ聞いたこともなかった私であった。


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