颱風吹きぬけた露草ひらく

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    阿蘇の火口を背に」

<行き交う人々−ひと曼荼羅>


<トライアングル−神澤茂子と天津善昭>


一昨年急逝した舞踊家K師の三回忌が近くなってきたので、昨日(24日)、およそ二年ぶりになるがK師宅を訪ねてみた。
阪奈道路から学園前の方へ入って数キロ走ると大渕橋に出る。ここから山中へ向かう道の突き当たるところが新興宗教らしき御嶽教大和本宮なのだが、その社殿に沿って横あいの細い道をアップダウンして、ちょうど裏山にあたるところ、森閑とした雑木林に包まれるようにK師の居宅と稽古場がある。
夫人の茂子さんは、若い近大OBの元研究生たちが稽古をしているのに付き合っていた所為だろうが、とても元気そうに振る舞っていた。
夫人はK師と同年だから満76歳。永年の舞踊家人生で苛酷に使い痛めた膝の故障以外は、すこぶる健康体でおられるようなのがなにはともあれ悦ばしい。
こうして逢うとお互いに三十年、四十年の星霜が二人のあいだに甦ってきて感慨ひとしきりと相成る。K師を取り巻いてつねに激しく動いてきた来し方、色々あった、ありすぎるほどにあったアレもコレも、
立場は異なるゆえその彩りはそのつど微妙に、時には大きく違ったのだろうが、今はもうその隔たりさえ優しく包み込んで受容できる雰囲気が満ちているような気がする。


K師と茂子夫人の出逢いが具体的にどんな経緯だったかよくは知らないが、K師は旧制高津中学、夫人は清水谷高女で同学年である。K師は終戦後すぐに学校で演劇部を立上げ、大阪の高校演劇の創生期をなすべくずいぶんと活動したというし、夫人のほうは牧場を有するような富豪のお嬢様とかで、モダンバレエと馬術に活躍していたというから、当時すでに互いに噂の人として聞き及んでいたかあるいは直接に見知っていたのかもしれない。
K師は旧制大高(現大阪大学)を経て、京都帝大(現京大)国文へと進み、夫人は府女専(大阪女子大・現大阪府大)へ進学したというが、どうやらこの学生時代から二人が交際していたらしいことは間違いないところで、眉目秀麗のエリート演劇青年がモダンバレエの法村門下で嘱目の男性舞踊家へと変身を遂げた背景に夫人の存在が深く関わっていたようだ。
私がK師の門に参入したのは63(S38)年だが、この時期すでにK師はドイツのR.ラバンやM.ヴィグマンから日本の邦正美へと連なる創作舞踊の系譜へと転身して五年余り経過しており、夫人を筆頭に十数名の研究生たちで一門を形成していた。そのなかには男性も若干名いたのだが、数年後には私の先輩としては天津善昭ひとりを残すのみで、惜しくもみな立ち去っていったのである。
天津善昭は私にとっては二年の年長。奈良と県境を接する京都府木津町の農家に育ったが、奈良県下随一の公立校である奈良高校を経て大阪市大文学部へ進学した。高校同期に60年代の三派系全学連委員長となった秋山勝行がいたと聞いたのもいまでは懐かしい。大学を卒えて、高校の国語教諭として大阪市教委に奉職した彼は汎愛高校へと赴任し、同校に二十年ほど勤務したのち他校へ転任している。
この茂子夫人と天津善昭に私を加えて、三人の会としてジョイントリサイタルが成ったのが68(S43)年の6月だった。各々小品を三つずつ作り計九つの作品集にK師の作品「Blues1.2.3」が添えられ一夜の会とした。作品の出来栄えはそれぞれ一長一短あったとしても、まがりなりにもK師門下より初の作家デビューというかたちである。さらに同年秋にはK師研究所創立十周年記念の公演を、K師の代表作によるプログラムでなされたのだが、いわばこの年は、K師の初期十年の成果を世に問うたメルクマールのごとき年だったといえるだろう。
K師の初期十年の歩みは、同伴者の夫人にとっては共に歩みつづけた十年であったろうし、今後の行く末もまた共に歩みつづけることになんの疑いを差し挟むべきものでなくまたなんの躊躇もないものであったろうが、自身の初心の七年を経てきた天津善昭や、同様に五年を経てきた私にとっては、自分自身における展望へのまなざしの向きをどう考えるべきか、徐々に内向していかざるをえない時期となっていく。それはK師や夫人にとっては、私たちの変節とも映らざるをえないものであったろうことは想像に難くないが、K師もまた次なる十年あるいは二十年へと変貌を遂げようとしていくなかで、天津善昭にしても私にしてもそれぞれ別様にではあるが、我が道を手探り同然で見えているものまた見ようとしているものが、K師とのあいだに齟齬をきたしていくのは止むを得ないことだったように思う。
こうしてK師初期の後半を支えてきたかにみえた夫人と天津善昭と私のトライアングルも形骸化していき、やがて夫人のみを残し、新しい戦力の育ってくるのをこの眼で確かめつつ、彼も私もそれぞれ立ち去りゆくのだった。


いま、天津善昭は生まれ育った木津の生家にひとり静かに俳句を詠みながら暮らしている。
数年前には細君に先立たれ、また自身も肺ガンに襲われ片肺を摘出、残されたほうの肺もまた肺気腫に見舞われ、酸素ボンベを片ときも離せない日々だという。
二年前にK師が急逝したおり、私はたしか一度きりだが泊まったかすかな記憶の残る彼の家を、それこそ三十年ぶりかという訪問をし、まさに積もる話も尽きぬとばかり何時間もお互いの近況について話しこんだのだった。
細君とともにある俳句の会に名を連ね句を詠んできたその結晶たる句集を、彼のものと細君のものと各々一冊ずつ頂戴して、私はやっと家路についたのだった。
病状ゆえにやむなく二年ほど前倒しして教師生活にピリオドをうち退職したというから、もう四年前からこの独り暮らしがつづいていることになる。
幸いにも二人の娘さんがすでに嫁いでいるとはいえ、日課のように交互にやってきて世話をしてくれているので、こうしていられるのだとも言っていた。
その彼が、酸素ボンベを抱いて、みずから車を運転して、この山中のK師宅へ、夫人を訪ねてきたと聞いて、私はほんとに吃驚してしまったのである。
「エッ! アマッチャンが?」 昔から私たちのあいだではアマッチャンなのだ。
「ほんとに、いつ?」
「5月や、二ヶ月くらい前や」と夫人。
そのあとつづける夫人の話を聞いて、私は二度びっくりしたのだが、まことに心あたたまる話に思わず一瞬涙があふれだすような強烈な感懐を抱いたのである。
夫人曰く、私も俳句をしたいから、教えてくれるか、といったら、一も二もなく、こんな私でよかったら、是非やりましょう、ということになり、
それからは二人のあいだで毎日のように、夫人は日なが一日をどこでも懸命に五七五と数えては詠み、夜になるとその日の成果である四つか五つの句をしたため、天津宅へファックスで送信する。
朝が明けると、彼から丁寧に添削され点付けされたものが返信されている、というのだ。
これがいま楽しくてしかたがない、一日二日と滞ったりしたら、なにか異変でもあったかと心配もさせるし、句を送れないときはちゃんとその旨を連絡しておかなくてはいけない。
孤独な独り暮らしをかこつ昔馴染み同士が、俳句が取り持つ縁とも頼みの綱ともなって、往時を懐かしみつつ、毎日交信している、というのだから、
「そりゃ、いい、絶対、いい。こんないい話はまたとないから、つづけなくてはいけません。」
と応じ、最近読んだ「ひねくれ一茶」が読みやすくて結構おもしろいから、とお節介にも勧めてみたりまでしたものだ。
彼、天津善昭には、自分と同じように連れ合いに先立たれた嘗ての師の夫人でもあり同僚ともいえるその人がずっと心に懸かってならかったのだろう。自分の寂しさよりもおそらく数倍は激しく今はなき者を追慕してやまぬであろう夫人の心情が手に取るように解っていたのだろう。夫人の心の支えとして自分にしかできないこともありうることが‥‥。
三十数年前のトライアングルがこんな形で復活してくるものとは思いもよらず、K師の三回忌を契機として、この先にいかほどの年月が残されているのかは神のみぞ知るで計りようもないけれど、老いてなお別次のトライアングルを描いてみるのも大いに実りある大切なことであるのかもしれない。


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