ふるさとや少年の口笛とあとやさき

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「いまは住む者もなく荒れ果てた母の里家」

<行き交う人々−ひと曼荼羅>


<四国・高知の山深く−おやじの生誕地へ>


ちょうど一週間前、21日(木)に日帰りで四国高知まで車を走らせた。
六十を越えたこの年になるまでおやじの生地を訪れたことはなかったが、おやじやおふくろのことをいざ描き出してみると、やはりどうしても訪ねてみないわけには心落ち着かなくなったとでもいうのだろうか。
私自身の心の動きが自分でよく読めないのだが、自制もできずに動くに委かせねばならぬこの胸のざわざわと波だつようは感触がたしかにあるにちがいなく、変化というべきなにかが起こっているらしいのだが‥‥。いったい私はどうしてしまったのか。


休みがとれたこの日−といっても私ではない、私のことなら一存でどうにでもなる、相方すなわちお内儀のことである−の朝早く、空が仄かにあかるい午前五時前、家族三人であわただしく出かけた。
目的地は高知県安芸郡北川村竹屋敷、ネットの地図で調べたところでは往路260km。徳島の鳴門ICあたりでちょうど半分ほどの距離となるのだが、そこまでは高速道路だから早かろうが、それ以降の125km余はずっと国道を走ってさらに山間部へと入っていくから、ノンストップでも片道5時間が相場だろう。若い頃ならともかくこの年ともなれば日帰りではかなりハードになること百も承知だが、観光目的でもなくこれといって気をおけないで厄介になれる親類先があるわけでもなく、贅沢もいえないし、ここは一番気力で乗りきるべしと決めての出立。
国道43号線で尼崎に入るとほどなく24時間営業のセルフサービスの給油所が眼にとまったのでひとまずガソリンを満タンに。これでおそらく往復600キロ近くなったとしても走行可能だろう。あとはいざ走れ、走れ。
芦屋から阪神高速神戸線に入って第2神明道路へ。第2神明から明石大橋へのジャンクションが廻りまわって意外にわかりにくくややこしい。鳴門大橋は何回か通ったことがあるが、開通してもう七年も経つのに明石大橋を走るのは初めて。さすが世界一の吊り橋を誇るそのスケールは鳴門に倍する壮観さがあり、真夏とはいえ早朝の走行は涼風をうけて至極心地よい。瀬戸内の島々など変化に富んだ風光を楽しむならなんといってもしまなみ海道にかぎるが、海峡を一気に駆け抜ける大橋の壮快さもまた捨てがたいものかと思う。
鳴門の大橋を渡りきって国道11号線徳島市へと走る。吉野川に架かる橋を越えると徳島市の中心街に入ってゆく。吉野川をたしか四国三郎と称したんだっけ。板東太郎が利根川で、とすると次郎もあるはずだがどの川だったろうなどと思いをめぐらせどいっこうに記憶は甦らない。そうこうしているうちに県庁前を通り過ぎて国道は55号線に変わっていた。−後日、調べてみると、次郎のほうは九州の筑後川と信州は信濃川と二説あるようで、筑紫次郎あるいは信濃次郎と呼称されているが、ひろく流布されているのは筑後川のほうか。−
さて、鳴門からざっと見てきたところコンビニはサンクスかローソンばかりで他のチェーンはまったくお目にかからない。そういえば愛知県ではKマートが圧倒的に多いところへセブン・イレブンが集中的に店舗展開をして局地的なコンビニ戦争が激化していると、何ヶ月か前にテレビで見たが、こうやって走ると地域々々でコンビニ地図なるものはきわめて特色あるものだとよく実感できる。そのいくつめかのローソンで一時停車してトイレ休憩をとる。
徳島市内から小松島市へと入ったころは午前8時すぎだったろうか。子どもの頃、毎年、夏ともなると祖父母がまだ健在だった母親の実家へ、一週間か長くて二週間、親が同伴せずとも我々子どもらだけでかならずといってよいほど帰ったものだった。
当時の帰省コースは、まず天保山から関西汽船の夜行で発つ。たいがいは二等乙の客室で横になって眠るのだが、これがなかなか寝つかれるものではない。小松島港へ着くのがまだ暗い午前4時半頃か、眠い眼をしょぼつかせながら、そこから鉄道の牟岐線に乗るため小松島駅まで15分位歩くのだが、荷物がかさばって重いときなどはこの徒歩が辛いから輪タクに一行の荷物を全部載せて、みんな身軽になって歩いていくというのがお定まりだった。波止場には客待ちの輪タクがいつも二十台は並んでいたろう。そんな懐かしい光景が甦ってくる。
阿南市へ入ってしばらく走ると津の峰神社参道の大きな立て看板が眼に入ってくる。そうかここを右折していくと津の峰さんに行けるのか。あれは高校へ入ったときの春休みだったが、母方の祖父と私ら二人(双生児の兄)と二歳下の従弟と四人でバスに揺られて登っていったっけ。祖父がなにやら願掛けをしていたお礼参りだといっていたが、バスを降りてから神社まで歩いた参道の桜並木はちょうど見頃の満開だった。
祖父と三人の少年たちの小さな旅はそれから徳島市内へと入り、祖父の知人宅を訪ねて眉山などを案内してもらったうえに一夜の厄介になって、翌日はたしか屋島栗林公園とめぐって金比羅さんまで足をのばしたのだったが、とすると金比羅さんの門前宿で一泊して高松から船に乗って帰ったのだろうか。なにしろ45年も昔のことだしそのあたりの記憶がすっかりとんでしまっている。
阿南市をすぎると日和佐町に入っていくのだが、昔は山越えの峠道しかなくて曲がりくねったデコボコ道の難路だったのに、もうずっと前から国道55号線を走ろうと県道25号線を走ろうとずいぶん楽なコースになっている。そういえば中学生の頃だったろう、母親の実家からの帰りをいつもなら牟岐から小松島まで鉄道のはずなのに適当な便がなかった所為か、炎暑の日盛りを四、五時間、もちろん舗装もない地道や山道をドスンドスンとバスに揺られっぱなしで帰ったこともあったが、あれはたった一度きりの経験だっけれど、私ら二人はあの時いったいだれと道連れの帰参だったのだろう。


日和佐町のもっとも賑やかなあたりに四国八十八ヶ所の二十三番札所薬王寺がある。国道に面して参道の石段がそそり立つように連なり、山腹に点在する堂塔伽藍が樹木の合い間を突き抜けるように聳え立つのが見える。
その日和佐の中心街を抜けたあたりから牟岐町へは海沿いに走る南阿波サンラインという道路もあるが、先をいそぐ身には国道55号線のほうが距離も短くて利便だから、景観のほうは犠牲にする。
と、長いなだらかな峠にさしかかったころお大師様と同行二人、遍路の旅装をした若い男性がひとり前方を汗を拭きふき歩いてゆくのが見えた。昨夜は薬王寺の参拝をすませて日和佐泊りだったにちがいないが、いまこの辺りを歩いているなら朝6時前には出立しているだろう。次の24番札所は室戸岬最御崎寺だからこの間なんと77㎞の行程である。この距離を季節柄もよくよほど自信の健脚ならば一日12〜3時間歩いて二日で踏破してしまうのかもしれないが、この炎天下ではあまりに苛酷すぎようから三日間かけてゆくのではないだろうか。とすれば一日の行程26km平均となるから距離そのものは過重なものではないけれど、それにしてもそんなに頻繁な量でないとしても車がビュンビュン走るアスファルトの国道を、酷暑のなか延々と歩きつづけるというのは苦行以外のなにものでもないだろう。昔々の四国遍路は人も通わぬ山深い峠の道にあるいは道なき海辺の岩陰に、たとえ途上行き倒れて命を落とすとしても同行二人なれば往生疑いなしと覚悟のうえであったろうが、文明のゆくてに未来は望みえずただ終末しか描けぬ現代という病いのなかで、巷にあふれる果てしない逃避行を180度転換したごとくみえるいま流行りの遍路行には、これはこれで往時とはことなる別次の緊張もあれば容易ならぬ気力も要るだろう。
そんな遍路たちのひとりゆく姿に、さらに牟岐付近でと、宍喰あたりでと、野根街道へと入る手前でと四度出会ったのだが、年齢は一見したところ20代から50歳前後までかと見受けられたが、それぞれ一様にしたたり落ちる汗が熱い陽射しに光りの粒ともなって、ひたすら前へ前へと黙々と歩きつづけるその後姿からふと感じられたのは、新薬師寺で見たことのある十二神将像のバサラたちにも似て、闇の奥底ふかくを睨みすえるようにして立つ気迫に満ちた意志の放射だった。
それにしてもクルマに代表される現代のあたりまえの日常の移動のリズムと、それとは極端に異なる自分の身体だけをたよりにただひたすら歩くしかない古来より変わらぬ人としての歩行のリズムとが、まるで未開と文明のごとくまったく交わりようもない異次元の生命の営みとして、同じ時空に互いに乖離したまま存在しているというこの不可思議な現実をいったいどう受けとめるべきなのだろうか。 −(この項つづく)


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